えた、フロツク・コオトを着てゐる男ですがね。御覧なさい。此処《ここ》に名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]があります。Herr Stuffendpuff. ちつとは有名な男ですか? 成程《なるほど》ね、つまりその新聞や何かに議論を書いてゐる人間なんでせう。そいつの眼玉がこれぢやありませんか? そら、壁へ叩きつけても、容易な事ぢや破れませんや。驚いたでせう。二つともこの通り入れ眼ですよ。硝子細工《ガラスざいく》の入れ眼ですよ。
疲労
雨を孕《はら》んだ風の中に、竜騎兵の士官を乗せた、アラビア種《だね》の白馬《しろうま》が一頭、喘《あへ》ぎ喘ぎ走つて行つた。と思ふと銃声が五六発、続けさまに街道《かいだう》の寂寞《せきばく》を破つた。その時|白楊《ポプラア》の並木《なみき》の根がたに、尿《ねう》をしやんだ一頭の犬は、これも其処《そこ》へ来かかつた、仲間の尨犬《むくいぬ》に話しかけた。
「どうだい、あの白馬の疲れやうは?」
「莫迦《ばか》々々しいなあ。馬ばかりが獣《けもの》ぢやあるまいし、――」
「さうとも、僕等に乗つてくれれば、地球の極《はて》へも飛んで行《ゆ》くのだが、――」
二匹の犬はかう云ふが早いか、竜騎兵の士官でも乗せてゐるやうに、昂然《かうぜん》と街道を走つて行つた。
魔女
魔女は箒《はうき》に跨《またが》りながら、片々《へんぺん》と空を飛んで行つた。
それを見たものが三人あつた。
一人《ひとり》は年をとつた月だつた。これは又かと云ふやうに、黙々と塔の上にかかつてゐた。
もう一人は風見《かざみ》の鶏だつた。これはびつくりしたやうに、ぎいぎい桿《さを》の上に啼きまはつた。
最後の一人は大学教授 Dundergutz 先生だつた。これはその後《ご》熱心に、魔女が空を飛んで行つたのは、箒が魔女を飛ばせたのか、魔女が箒を飛ばせたものか、どちらかと云ふ事を研究し出した。
何《なん》でも先生は今日《こんにち》でも、やはり同じ大問題を研究し続けてゐるさうである。
魔女は箒に跨りながら、昨夜《ゆうべ》も大きな蝙蝠《かうもり》のやうに、片々と空を飛んで行つた。
遊び
崖に臨んだ岩の隙《すき》には、一株の羊歯《しだ》が茂つてゐる。トムはその羊歯の葉の上に、さつきから一匹の大土蜘蛛《おほつちぐも》と、必死の格闘を続けてゐる。何しろ評判の渾名《あだな》通り、親指|位《くらゐ》しかない男だから、蜘蛛と戦ふのも容易ではない。蜘蛛は足を拡げた儘、まつしぐらにトムへ殺到する。トムはその度に身をかはせては、咄嗟《とつさ》に蜘蛛の腹へ一撃を加へる。……
それが十分程続いた後《のち》、彼等は息も絶え絶えに、どちらも其処へゐすくまつてしまつた。
羊歯《しだ》の生えた岩の下には、深い谷底が開《ひら》いてゐる。一匹の毒竜はその谷底に、白馬《しろうま》へ跨《またが》つた聖ヂヨオヂと、もう半日も戦つてゐる。何しろ相手の騎士の上には、天主《てんしゆ》の冥護《みやうご》が加《くはは》つてゐるから、毒竜も容易に勝つ事は出来ない。毒竜は火を吐きかけ、吐きかけ、何度も馬の鞍《くら》へ跳り上る。が、何時《いつ》でも竜の爪は、騎士の鎧《よろひ》に辷《すべ》つてしまつた。聖ヂヨオヂは槍を揮《ふる》ひながら、縦横《じゆうわう》に馬を跳らせてゐる。軽快な蹄《ひづめ》の音、花々しい槍の閃《ひらめ》き、それから毒竜の炎《ほのほ》の中《うち》に、※[#「參+毛」、第3水準1−86−45]々《さん/\》と靡《なび》いた兜《かぶと》の乱れ毛、……
トムは遠い崖の下に、勇ましい聖ヂヨオヂの姿を見ると、苦々《にが/\》しさうに舌打ちをした。
「畜生《ちくしやう》。あいつは遊んでゐやがる。」
Don Juan aux enfers
ドン・ジユアンは舟の中に、薄暗い河を眺めてゐる。時々古い舟《ふな》べりを打つては、蒼白い火花を迸《ほとばし》らせる、泊夫藍色《サフランいろ》の浪の高さ。その舟の艫《とも》には厳《いはほ》のやうに、黙々と今日《けふ》も櫂《かい》を取つた、おお、お前! 寂しいシヤアロン!
或|霊《れい》は遠い浪の間《あひだ》に、高々と両手をさし上げながら、舟中《しうちう》の客を呪《のろ》つてゐる。又或霊は口惜《くや》しさうに、舟べりを煙らせた水沫《しぶき》の中から、ぢつと彼の顔を見上げてゐる。見よ! あちらの舳《へさき》に縋《すが》つた、或霊の腕の逞《たく》ましさを! と思ふとこちらの艫《とも》にも、シヤアロンの櫂《かい》に払はれたのか、真逆様《まつさかさま》に沈みかかつた、或霊の二つの足のうら!
妻を盗まれた夫《をつと》の霊、娘を掠《かす》められた父親の霊、恋人を奪はれた若者の霊。――この河に浮き沈む無数の
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