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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)勿論《もちろん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)重門|尽《ことごと》く

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)兪※[#「木+越」、第3水準1−86−11]《ゆゑつ》
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 クロオド・フアレエルの作品を始めて日本に紹介したのは多分堀口大学氏であらう。僕はもう六七年前に「三田文学」の為に同氏の訳した「キツネ」艦の話を覚えてゐる。
「キツネ」艦の話は勿論《もちろん》、フアレエルの作品に染《し》みてゐるものは東洋の鴉片《アヘン》の煙である。僕はこの頃矢野目源一氏の訳した、やはりフアレエルの「静寂の外に」を読み、もう一度この煙に触れることになつた。尤《もつと》もこの「静寂の外に」は芳《かんば》しい鴉片の匂の外にも死人の匂をも漂はせてゐる。「ポオとボオドレエル」兄弟商会の造つた死人の匂をも漂はせてゐる。
「おや、聞えたぞ。いや、空耳だらう。己にはわからない。死人の土地から洩れて来るにしてはあんまり音が大き過ぎる。一体ここで物の割れる音なんかするわけがない。泥溜《どろだめ》の中で棺桶が嚔《くさめ》をする。――一枚の板が揺ぶられる。頑丈な釘がうちつけてあるのを恐しい音をさせて軋《きし》ませる。……」
 これはポオの「Premature Burial」が大西洋の彼岸に伝へた幾多の反響の一つである。が、そんなことはどうでも好い。僕にちよつと面白かつたのは下に引用する一節である。――
「ところで已《すで》に仏蘭西《フランス》の土地で阿片を造らうとして失敗をつづけ乍《なが》らさまざまに苦心した。東京《トンキン》から持つて来た罌粟《けし》の種子を死骸で肥えた墓地に植ゑて見ると思ひの外に成績がよくてその特徴を発揮させることが出来た。今では、その毒汁で脹らんだ芥子坊主《けしぼうず》を切りさへすれば、望み通りに茶色の涙のやうなものがぼろぼろと滴り落ちて来る。……」
 鴉片に死人を想はせるのはフアレエルの作品に始まつたのではない。僕はこの頃漫然と兪※[#「木+越」、第3水準1−86−11]《ゆゑつ》の「右台仙館筆記《うたいせんくわんひつき》」を読んでゐるうちにかう云ふ俗伝は支那人の中にもあつたと云ふことを発見した。それは同書の中に掲げた「賈慎庵《かしんあん》」の話に出合つたからである。
 賈慎庵は何でも乾隆《けんりゆう》の末の老諸生の一人だつたと云ふことである。それが或夜の夢の中に大きい役所らしい家の前へ行つた。家は重門|尽《ことごと》く掩《おほ》ひ、闃《げき》としてどこにも人かげは見えない。「正に徘[#「徘」は底本では「俳」]徊《はいくわい》の間、俄《には》かに数人あり、一婦を擁して遠きより来り、この門の外に至る。」それから彼等はどう云ふ量見か、婦人の上下衣を奪つてしまつた。婦人はまだ年少である。のみならず姿色もない訣ではない。「瑩然《えいぜん》として裸立す、羞愧《しうき》の状、殆ど堪ふ可からず。」気を負うた賈《か》は直ちに進んで彼等の無状を叱りつけた。
「汝輩《なんぢがはい》、何びとぞ。敢て無礼を肆《し》する?」
 しかし彼等は微笑したまま、かう云ふ返答をしただけである。
「此れ何ぞ異とするに足らん。」
「言、未だ畢《をは》らず。門|忽《たちま》ち啓《ひら》く。数人有り。一巨桶《いちきよとう》を扛《かう》して出づ。一吏文書を執つてその後に随つて去る。衆即ち裸婦を擁して入る。賈も亦《また》随つて入る。」それから数門を過ぎて一広庭に至ると、「男女数百を見る。或は立ち、或は坐し、或は臥す。而して皆裸にして寸縷《すんる》無し。堂上に一官坐す。其前に一大|搾牀《さくしやう》を設く。健夫数輩、大鉄叉を執り、任意に男婦を将《も》つて槽内に叉置《さち》し、大石を用つて之を圧搾す。膏血《かうけつ》淋漓《りんり》たり。下に承くるに盆を以てす。盆満つれば即ち巨桶中に※[#「てへん+邑」、第3水準1−84−78]注《いふちう》す。是《かく》の如きもの十余次。巨桶|乃《すなはち》満つ。数人之を扛して出づ。官文書を判して一吏に付し、与《とも》に同じく出づ。」そこで賈が吏の顔を見ると、これはとうに墓の下へはひつた昔の隣人の周達夫《しうたつふ》である。賈は進んで周の名を呼んだ。
「子《し》胡《な》んぞ此に在るか? 此れ豈《あに》久しく留る可《べ》けんや。速《すみやか》に我に従つて出でよ。」
 周は驚いてかう言つた。が、賈は更に桶中《とうちう》の物の何であるかを尋ねて見た。
「鴉片|煙膏《えんかう》なり。」
 鴉片はまだ乾隆の末には今日のやうに流行しなかつた。従つて賈も亦鴉片とは何ものであるかを知らなか
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