。それは同書の中に掲げた「賈慎庵《かしんあん》」の話に出合つたからである。
 賈慎庵は何でも乾隆《けんりゆう》の末の老諸生の一人だつたと云ふことである。それが或夜の夢の中に大きい役所らしい家の前へ行つた。家は重門|尽《ことごと》く掩《おほ》ひ、闃《げき》としてどこにも人かげは見えない。「正に徘[#「徘」は底本では「俳」]徊《はいくわい》の間、俄《には》かに数人あり、一婦を擁して遠きより来り、この門の外に至る。」それから彼等はどう云ふ量見か、婦人の上下衣を奪つてしまつた。婦人はまだ年少である。のみならず姿色もない訣ではない。「瑩然《えいぜん》として裸立す、羞愧《しうき》の状、殆ど堪ふ可からず。」気を負うた賈《か》は直ちに進んで彼等の無状を叱りつけた。
「汝輩《なんぢがはい》、何びとぞ。敢て無礼を肆《し》する?」
 しかし彼等は微笑したまま、かう云ふ返答をしただけである。
「此れ何ぞ異とするに足らん。」
「言、未だ畢《をは》らず。門|忽《たちま》ち啓《ひら》く。数人有り。一巨桶《いちきよとう》を扛《かう》して出づ。一吏文書を執つてその後に随つて去る。衆即ち裸婦を擁して入る。賈も亦《また》随つて入る。」それから数門を過ぎて一広庭に至ると、「男女数百を見る。或は立ち、或は坐し、或は臥す。而して皆裸にして寸縷《すんる》無し。堂上に一官坐す。其前に一大|搾牀《さくしやう》を設く。健夫数輩、大鉄叉を執り、任意に男婦を将《も》つて槽内に叉置《さち》し、大石を用つて之を圧搾す。膏血《かうけつ》淋漓《りんり》たり。下に承くるに盆を以てす。盆満つれば即ち巨桶中に※[#「てへん+邑」、第3水準1−84−78]注《いふちう》す。是《かく》の如きもの十余次。巨桶|乃《すなはち》満つ。数人之を扛して出づ。官文書を判して一吏に付し、与《とも》に同じく出づ。」そこで賈が吏の顔を見ると、これはとうに墓の下へはひつた昔の隣人の周達夫《しうたつふ》である。賈は進んで周の名を呼んだ。
「子《し》胡《な》んぞ此に在るか? 此れ豈《あに》久しく留る可《べ》けんや。速《すみやか》に我に従つて出でよ。」
 周は驚いてかう言つた。が、賈は更に桶中《とうちう》の物の何であるかを尋ねて見た。
「鴉片|煙膏《えんかう》なり。」
 鴉片はまだ乾隆の末には今日のやうに流行しなかつた。従つて賈も亦鴉片とは何ものであるかを知らなか
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