娘は、勿論これを、男の唄の声だと思った。寝息を窺《うかが》うと、母親はよく寝入っているらしい。そこで、そっと床《とこ》をぬけ出して、入口の戸を細目にあけながら、外の容子《ようす》を覗いて見た。が、外はうすい月と浪の音ばかりで、男の姿はどこにもない。娘は暫くあたりを見廻していたが、突然つめたい春の夜風にでも吹かれたように、頬《ほお》をおさえながら、立ちすくんでしまった。戸の前の砂の上に、点々として貉の足跡のついているのが、その時|朧《おぼろ》げに見えたからであろう。……
この話は、たちまち幾百里の山河《さんが》を隔てた、京畿《けいき》の地まで喧伝《けんでん》された。それから山城《やましろ》の貉が化《ば》ける。近江《おうみ》の貉が化ける。ついには同属の狸《たぬき》までも化け始めて、徳川時代になると、佐渡の団三郎と云う、貉とも狸ともつかない先生が出て、海の向うにいる越前の国の人をさえ、化かすような事になった。
化かすようになったのではない。化かすと信ぜられるようになったのである――こう諸君は、云うかも知れない。しかし、化かすと云う事と、化かすと信ぜられると云う事との間には、果してどれほどの相違があるのであろう。
独り貉ばかりではない。我々にとって、すべてあると云う事は、畢竟《ひっきょう》するにただあると信ずる事にすぎないではないか。
イェエツは、「ケルトの薄明《うすあか》り」の中で、ジル湖上の子供たちが、青と白との衣《きもの》を着たプロテスタント派の少女を、昔ながらの聖母マリアだと信じて、疑わなかった話を書いている。ひとしく人の心の中に生きていると云う事から云えば、湖上の聖母は、山沢《さんたく》の貉と何の異る所もない。
我々は、我々の祖先が、貉の人を化かす事を信じた如く、我々の内部に生きるものを信じようではないか。そうして、その信ずるものの命ずるままに我々の生き方を生きようではないか。
貉を軽蔑すべからざる所以《ゆえん》である。
[#地から1字上げ](大正六年三月)
底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」
1971(昭和46)年3月〜11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1998年11月7日公開
2004年1月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング