う言って笑い出した。そのうちに妻は僕等に追いつき、三人一列になって歩いて行った。僕等は妻の常談《じょうだん》を機会に前よりも元気に話し出した。
 僕はO君にゆうべの夢を話した。それは或文化住宅の前にトラック自動車の運転手と話をしている夢だった。僕はその夢の中にも確かにこの運転手には会ったことがあると思っていた。が、どこで会ったものかは目の醒《さ》めた後もわからなかった。
「それがふと思い出して見ると、三四年前にたった一度談話筆記に来た婦人記者なんだがね。」
「じゃ女の運転手だったの?」
「いや、勿論男なんだよ。顔だけは唯《ただ》その人になっているんだ。やっぱり一度見たものは頭のどこかに残っているのかな。」
「そうだろうなあ。顔でも印象の強いやつは、………」
「けれども僕はその人の顔に興味も何もなかったんだがね。それだけに反《かえ》って気味が悪いんだ。何だか意識の閾《しきい》の外にもいろんなものがあるような気がして、………」
「つまりマッチへ火をつけて見ると、いろんなものが見えるようなものだな。」
 僕はこんなことを話しながら、偶然僕等の顔だけははっきり見えるのを発見した。しかし星明りさえ見えないことは前と少しも変らなかった。僕は又何か無気味になり、何度も空を仰いで見たりした。すると妻も気づいたと見え、まだ何とも言わないうちに僕の疑問に返事をした。
「砂のせいですね。そうでしょう?」
 妻は両袖《りょうそで》を合せるようにし、広い砂浜をふり返っていた。
「そうらしいね。」
「砂と云うやつは悪戯《いたずら》ものだな。蜃気楼《しんきろう》もこいつが拵《こしら》えるんだから。………奥さんはまだ蜃気楼を見ないの?」
「いいえ、この間一度、――何だか青いものが見えたばかりですけれども。………」
「それだけですよ。きょう僕たちの見たのも。」
 僕等は引地川《ひきじがわ》の橋を渡り、東家《あずまや》の土手の外を歩いて行った。松は皆いつか起り出した風にこうこうと梢《こずえ》を鳴らしていた。そこへ背の低い男が一人、足早にこちらへ来るらしかった。僕はふとこの夏見た或錯覚を思い出した。それはやはりこう云う晩にポプラアの枝にかかった紙がヘルメット帽のように見えたのだった。が、その男は錯覚ではなかった。のみならず互に近づくのにつれ、ワイシャツの胸なども見えるようになった。
「何だろう、あのネクタイ・ピンは?」
 僕は小声にこう言った後、忽《たちま》ちピンだと思ったのは巻煙草《まきたばこ》の火だったのを発見した。すると妻は袂《たもと》を銜《くわ》え、誰《たれ》よりも先に忍び笑いをし出した。が、その男はわき目もふらずにさっさと僕等とすれ違って行った。
「じゃおやすみなさい。」
「おやすみなさいまし。」
 僕等は気軽にO君に別れ、松風の音の中を歩いて行った。その又松風の音の中には虫の声もかすかにまじっていた。
「おじいさんの金婚式はいつになるんでしょう?」
「おじいさん」と云うのは父のことだった。
「いつになるかな。………東京からバタはとどいているね?」
「バタはまだ。とどいているのはソウセェジだけ。」
 そのうちに僕等は門の前へ――半開きになった門の前へ来ていた。



底本:「昭和文学全集 第1巻」小学館
   1987(昭和62)年5月1日初版第1刷発行
親本:岩波書店刊「芥川龍之介全集」
   1977(昭和52)年〜1978(53)年
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月24日公開
2004年3月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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