、寂しい音を立て続けた。男は法師を尻目にしながら、苛立《いらだ》たしい思ひを紛《まぎ》らせたさに、あちこち石畳みを歩いてゐた。その内にふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子《れんじ》の中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。男は殆《ほとんど》何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。
窓の中には尼が一人、破れた筵《むしろ》をまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。女は夕ぐれの薄明りにも、無気味な程|痩《や》せ枯《が》れてゐるらしかつた。しかしその姫君に違ひない事は、一目見ただけでも十分だつた。男は声をかけようとした。が、浅ましい姫君の姿を見ると、なぜかその声が出せなかつた。姫君は男のゐるのも知らず、破れ筵の上に寝反りを打つと、苦しさうにこんな歌を詠《よ》んだ。
「たまくらのすきまの風もさむかりき、身はならはしのものにざりける。」
男はこの声を聞いた時、思はず姫君の名前を呼んだ。姫君はさすがに枕を起した。が、男を見るが早いか、何かかすかに叫んだきり、又筵の上に俯伏《うつぶ》してしまつた。尼は、――あの忠実な乳母は、其処へ飛びこんだ男と一しよに、慌《あわ》てて姫君を抱き起した。しかし抱き起した顔を見ると、乳母は勿論男さへも、一層慌てずにはゐられなかつた。
乳母はまるで気の狂つたやうに、乞食法師のもとへ走り寄つた。さうして、臨終の姫君の為に、何なりとも経を読んでくれと云つた。法師は乳母の望み通り、姫君の枕もとへ座を占めた。が、経文を読誦《どくじゆ》する代りに、姫君へかう言葉をかけた。
「往生は人手に出来るものではござらぬ。唯御自身怠らずに、阿弥陀仏の御名《みな》をお唱へなされ。」
姫君は男に抱かれた儘、細ぼそと仏名《ぶつみやう》を唱へ出した。と思ふと恐しさうに、ぢつと門の天井を見つめた。
「あれ、あそこに火の燃える車が。……」
「そのやうな物にお恐れなさるな。御仏《みほとけ》さへ念ずればよろしうござる。」
法師はやや声を励ました。すると姫君は少時《しばらく》の後、又夢うつつのやうに呟《つぶや》き出した。
「金色《こんじき》の蓮華《れんげ》が見えまする。天蓋《てんがい》のやうに大きい蓮華が。……」
法師は何か云はうとしたが、今度はそれよりもさきに、姫君が切れ切れに口を開いた。
「蓮華はもう見えませぬ。跡には唯暗い中に風ばかり吹いて居りまする。」
「一心に仏名を御唱へなされ。なぜ一心に御唱へなさらぬ?」
法師は殆ど叱るやうに云つた。が、姫君は絶え入りさうに、同じ事を繰り返すばかりだつた。
「何も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いて参りまする。」
男や乳母は涙を呑みながら、口の内に弥陀を念じ続けた。法師も勿論合掌した儘、姫君の念仏を扶《たす》けてゐた。さう云ふ声の雨に交《まじ》る中に、破れ筵を敷いた姫君は、だんだん死に顔に変つて行つた。……
六
それから何日か後の月夜、姫君に念仏を勧《すす》めた法師は、やはり朱雀門の前の曲殿に、破《や》れ衣《ごろも》の膝を抱へてゐた。すると其処へ侍《さむらひ》が一人、悠々と何か歌ひながら、月明りの大路《おほぢ》を歩いて来た。侍は法師の姿を見ると、草履《ざうり》の足を止《と》めたなり、さりげないやうに声をかけた。
「この頃この朱雀門のほとりに、女の泣き声がするさうではないか?」
法師は石畳みに蹲《うづく》まつた儘、たつた一言返事をした。
「お聞きなされ。」
侍はちよつと耳を澄ませた。が、かすかな虫の音の外は、何一つ聞えるものもなかつた。あたりには唯松の匂が、夜気に漂つてゐるだけだつた。侍は口を動かさうとした。しかしまだ何も云はない内に、突然何処からか女の声が、細そぼそと歎きを送つて来た。
侍は太刀に手をかけた。が、声は曲殿の空に、一しきり長い尾を引いた後、だんだん又何処かへ消えて行つた。
「御仏を念じておやりなされ。――」
法師は月光に顔を擡《もた》げた。
「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐《ふがひ》ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」
しかし侍は返事もせずに、法師の顔を覗きこんだ。と思ふと驚いたやうに、その前へいきなり両手をついた。
「内記《ないき》の上人《しやうにん》ではございませんか? どうして又このやうな所に――」
在俗の名は慶滋《よししげ》の保胤《やすたね》、世に内記の上人と云ふのは、空也《くうや》上人の弟子の中にも、やん事ない高徳の沙門《しやもん》だつた。
[#地から2字上げ](大正十一年七月)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:林めぐみ
1998年12月2日公開
2004年3月16日修正
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