には、丹波《たんば》の前司《ぜんじ》なにがしの殿が、あなた様に会はせて頂きたいとか申して居るさうでございます。前司はかたちも美しい上、心ばへも善いさうでございますし、前司の父も受領《ずりやう》とは申せ、近い上達部《かんだちめ》の子でもございますから、お会ひになつては如何《いかが》でございませう? かやうに心細い暮しをなさいますよりも、少しは益《ま》しかと存じますが。……」
 姫君は忍び音《ね》に泣き初めた。その男に肌身を任せるのは、不如意な暮しを扶《たす》ける為に、体を売るのも同様だつた。勿論それも世の中には多いと云ふ事は承知してゐた。が、現在さうなつて見ると、悲しさは又格別だつた。姫君は乳母と向き合つた儘、葛《くず》の葉を吹き返す風の中に、何時までも袖を顔にしてゐた。……

       二

 しかし姫君は何時の間にか、夜毎に男と会ふやうになつた。男は乳母の言葉通りやさしい心の持ち主だつた。顔かたちもさすがにみやびてゐた。その上姫君の美しさに、何も彼《か》も忘れてゐる事は、殆《ほとんど》誰の目にも明らかだつた。姫君も勿論この男に、悪い心は持たなかつた。時には頼もしいと思ふ事もあつた。が、蝶鳥《てふとり》の几帳《きちやう》を立てた陰に、燈台の光を眩《まぶ》しがりながら、男と二人むつびあふ時にも、嬉しいとは一夜も思はなかつた。
 その内に屋形は少しづつ、花やかな空気を加へ初めた。黒棚や簾《すだれ》も新たになり、召使ひの数も殖《ふ》えたのだつた。乳母は勿論以前よりも、活《い》き活きと暮しを取り賄《まかな》つた。しかし姫君はさう云ふ変化も、寂しさうに見てゐるばかりだつた。
 或|時雨《しぐれ》の渡つた夜、男は姫君と酒を酌《く》みながら、丹波の国にあつたと云ふ、気味の悪い話をした。出雲路《いづもぢ》へ下る旅人が大江山の麓に宿を借りた。宿の妻は丁度その夜、無事に女の子を産み落した。すると旅人は生家《うぶや》の中から、何とも知れぬ大男が、急ぎ足に外へ出て来るのを見た。大男は唯「年は八歳、命《めい》は自害」と云ひ捨てたなり、忽《たちま》ち何処《どこ》かへ消えてしまつた。旅人はそれから九年目に、今度は京へ上る途中、同じ家に宿つて見た。所が実際女の子は、八つの年に変死してゐた。しかも木から落ちた拍子に、鎌を喉《のど》へ突き立ててゐた。――話は大体かう云ふのだつた。姫君はそれを聞いた
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