二枚敷いて、床をかけるかわりにした。鮮やかな緋《ひ》の色が、三味線の皮にも、ひく人の手にも、七宝《しっぽう》に花菱《はなびし》の紋が抉《えぐ》ってある、華奢《きゃしゃ》な桐の見台《けんだい》にも、あたたかく反射しているのである。その床の間の両側へみな、向いあって、すわっていた。上座《じょうざ》は師匠の紫暁《しぎょう》で、次が中洲の大将、それから小川の旦那と順を追って右が殿方、左が婦人方とわかれている。その右の列の末座にすわっているのがこのうちの隠居であった。
隠居は房《ふさ》さんと云って、一昨年、本卦返《ほんけがえ》りをした老人である。十五の年から茶屋酒の味をおぼえて、二十五の前厄《まえやく》には、金瓶大黒《きんぺいだいこく》の若太夫と心中沙汰になった事もあると云うが、それから間もなく親ゆずりの玄米《くろごめ》問屋の身上《しんじょう》をすってしまい、器用貧乏と、持ったが病の酒癖とで、歌沢の師匠もやれば俳諧の点者《てんじゃ》もやると云う具合に、それからそれへと微禄《びろく》して一しきりは三度のものにも事をかく始末だったが、それでも幸に、僅な縁つづきから今ではこの料理屋に引きとられて、楽隠居の身の上になっている。中洲の大将の話では、子供心にも忘れないのは、その頃盛りだった房さんが、神田祭の晩|肌守《はだまも》りに「野路《のじ》の村雨《むらさめ》」のゆかたで喉をきかせた時だったと云うが、この頃はめっきり老いこんで、すきな歌沢もめったに謡《うた》わなくなったし、一頃凝った鶯もいつの間にか飼わなくなった。かわりめ毎に覗き覗きした芝居も、成田屋《なりたや》や五代目がなくなってからは、行く張合《はりあい》がなくなったのであろう。今も、黄いろい秩父の対《つい》の着物に茶博多《ちゃはかた》の帯で、末座にすわって聞いているのを見ると、どうしても、一生を放蕩《ほうとう》と遊芸とに費した人とは思われない。中洲の大将や小川の旦那が、「房さん、板新道《いたじんみち》の――何とか云った…そうそう八重次お菊。久しぶりであの話でも伺おうじゃありませんか。」などと、話しかけても、「いや、もう、当節はから意気地がなくなりまして。」と、禿頭《はげあたま》をなでながら、小さな体を一層小さくするばかりである。
それでも妙なもので、二段三段ときいてゆくうちに、「黒髪のみだれていまのものおもい」だの、「夜《よ
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