ゐる暇に、二人の恋人は宮を抜け出て彼《か》の独木舟《まるきぶね》が繋《つな》いである、寂しい海辺の岩の間に、慌しい幸福を偸《ぬす》む事が出来た。須世理姫は香りの好い海草の上に横はりながら、暫くは唯夢のやうに、葦原醜男の顔を仰いでゐたが、やがて彼の腕を引き離すと、
「今夜も此処に御泊りなすつては、あなたの御命が危うございます。私の事なぞは御かまひなく、一刻も早く御逃げ下さいまし。」と、心配さうに促し立てた。
しかし葦原醜男は笑ひながら、子供のやうに首を振つて見せた。
「あなたが此処にゐる間は、殺されても此処を去らない心算《つもり》です。」
「それでもあなたの御体に、万一の事でもあつた日には――」
「ではすぐにも私と一しよに、この島を逃げてくれますか?」
須世理姫はためらつた。
「さもなければ私は何時までも、此処にゐる覚悟をきめてゐます。」
葦原醜男はもう一度、無理に彼女を抱きよせようとした。が、彼女は彼を突きのけると急に海草の上から身を起して、
「御父様が呼んでゐます。」と、気づかはしさうな声を出した。さうして咄嗟《とつさ》に岩の間を、若い鹿より身軽さうに、宮の方へ上つて行つた。
後に残つた葦原醜男は、まだ微笑を浮べながら、須世理姫の姿を見送つた。と、彼女の寝てゐた所には、昨夕《ゆうべ》彼が貰つたやうな、領巾《ひれ》がもう一枚落ちてゐた。
六
その夜素戔嗚は人手を借らず、蜂の室《むろ》と向ひ合つた、もう一つの室の中に、葦原醜男を抛りこんだ。
室の中は昨日の通り、もう暗黒《くらやみ》が拡がつてゐた。が、唯一つ昨日と違つて、その暗黒の其処此処には、まるで地の底に埋もれた無数の宝石の光のやうに、点々ときらめく物があつた。
葦原醜男は心の中に、この光物《ひかりもの》の正体を怪しみながら、暫くは眼が暗黒に慣れる時の来るのを待つてゐた。すると間もなく彼の周囲が、次第にうす明くなるにつれて、その星のやうな光物が、殆ど馬さへ呑みさうな、凄じい大蛇《をろち》の眼に変つた。しかも大蛇は何匹となく、或は梁《はり》に巻きついたり、或は桷《たるき》を伝はつたり、或は又床にとぐろを巻いたり、室一ぱいに気味悪く、蠢《うごめ》き合つてゐるのであつた。
彼は思はず腰に下げた剣の柄《つか》に手をかけた。が、たとひ剣を抜いた所が、彼が一匹斬る内には、もう一匹が造作なく彼を
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