こから湿っぽい南風《みなみかぜ》が、幅の広い砂利道《じゃりみち》へ生暖く吹き下して来た。俊助は「雨かな」と呟きながら、それでも一向急ぐ気色《けしき》はなく、書物を腋《わき》の下に挟《はさ》んだまま、悠長な歩みを続けて行った。
が、そう呟くか呟かない内に、もう一度かすかに雷《らい》が鳴って、ぽつりと冷たい滴《しずく》が頬に触れた。続いてまた一つ、今度は触るまでもなく、際どく角帽の庇を掠《かす》めて、糸よりも細い光を落した。と思うと追々に赤煉瓦の色が寒くなって、正門の前から続いている銀杏《いちょう》の並木の下まで来ると、もう高い並木の梢《こずえ》が一面に煙って見えるほど、しとしとと雨が降り出した。
その雨の中を歩いて行く俊助の心は沈んでいた。彼は藤沢の声を思い出した。大井の顔も思い出した。それからまた彼等が代表する世間なるものも思い出した。彼の眼に映じた一般世間は、実行に終始するのが特色だった。あるいは実行するのに先立って、信じてかかるのが特色だった。が、彼は持って生れた性格と今日《こんにち》まで受けた教育とに煩《わずら》わされて、とうの昔に大切な、信ずると云う機能を失っていた。まして実行する勇気は、容易に湧いては来なかった。従って彼は世間に伍《ご》して、目まぐるしい生活の渦の中へ、思い切って飛びこむ事が出来なかった。袖手《しゅうしゅ》をして傍観す――それ以上に出る事が出来なかった。だから彼はその限りで、広い世間から切り離された孤独を味うべく余儀なくされた。彼が大井と交際していながら、しかも猶《なお》俊助ズィ・エピキュリアンなどと嘲《ののし》られるのはこのためだった。まして土耳其帽《トルコぼう》の藤沢などは……
彼の考がここまで漂流して来た時、俊助は何気《なにげ》なく頭を擡《もた》げた。擡げると彼の眼の前には、第八番教室の古色蒼然たる玄関が、霧のごとく降る雨の中に、漆喰《しっくい》の剥《は》げた壁を濡らしていた。そうしてその玄関の石段の上には、思いもよらない若い女がたった一人|佇《たたず》んでいた。
雨脚《あまあし》の強弱はともかくも、女は雨止《あまや》みを待つもののごとく、静に薄暗い空を仰いでいた。額にほつれかかった髪の下には、潤《うるお》いのある大きな黒瞳《くろめ》が、じっと遠い所を眺めているように見えた。それは白い――と云うよりもむしろ蒼白い顔の色に、ふさわしい二重瞼《ふたえまぶた》だった。着物は――黒い絹の地へ水仙《すいせん》めいた花を疎《まばら》に繍《ぬ》い取った肩懸けが、なだらかな肩から胸へかけて無造作《むぞうさ》に垂れているよりほかに、何も俊助の眼には映らなかった。
女は俊助が首を擡《もた》げたのと前後して、遠い空から彼の上へうっとりとその黒瞳勝《くろめが》ちな目を移した。それが彼の眼と出合った時、女の視線はしばらくの間《あいだ》、止まるとも動くともつかず漂っていた。彼はその刹那《せつな》、女の長い睫毛《まつげ》の後《うしろ》に、彼の経験を超越した、得体の知れない一種の感情が揺曳《ようえい》しているような心もちがした。が、そう思う暇《ひま》もなく、女はまた眼を挙げて、向うの講堂の屋根に降る雨の脚を眺め出した。俊助は外套の肩を聳やかせて、まるで女の存在を眼中に置かない人のように、冷然とその前を通り過ぎた。三度《さんど》頭の上の雲を震わせた初雷《はつらい》の響を耳にしながら。
五
雨に濡れた俊助《しゅんすけ》が『鉢《はち》の木《き》』の二階へ来て見ると、野村《のむら》はもう珈琲茶碗《コオヒイじゃわん》を前に置いて、窓の外の往来へ退屈そうな視線を落していた。俊助は外套《がいとう》と角帽とを給仕の手に渡すが早いか、勢いよく野村の卓子《テエブル》の前へ行って、「待たせたか」と云いながら、どっかり曲木《まげき》の椅子《いす》へ腰を下した。
「うん、待たない事もない。」
ほとんど鈍重な感じを起させるほど、丸々と肥満した野村は、その太い指の先でちょいと大島の襟を直しながら、細い鉄縁《てつぶち》の眼鏡越しにのんびりと俊助の顔を見た。
「何にする? 珈琲か。紅茶か。」
「何でも好い。――今、雷《かみなり》が鳴ったろう。」
「うん、鳴ったような気もしない事はない。」
「相不変《あいかわらず》君はのんきだな。また認識の根拠は何処《いずく》にあるかとか何とか云う問題を、御苦労様にも考えていたんだろう。」
俊助は金口《きんぐち》の煙草《たばこ》に火をつけると、気軽そうにこう云って、卓子《テエブル》の上に置いてある黄水仙《きずいせん》の鉢へ眼をやった。するとその拍子《ひょうし》に、さっき大学の中で見かけた女の眼が、何故《なぜ》か一瞬間|生々《いきいき》と彼の記憶に浮んで来た。
「まさか――僕は犬と遊んでいたんだ。」
野村は子供のように微笑しながら、心もち椅子をずらせて、足下《あしもと》に寝ころんでいた黒犬を、卓子掛《テエブルクロオス》の陰からひっぱり出した。犬は毛の長い耳を振って、大きな欠伸《あくび》を一つすると、そのまままたごろりと横になって、仔細《しさい》らしく俊助の靴の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を嗅ぎ出した。俊助は金口《きんぐち》の煙を鼻へ抜きながら、気がなさそうに犬の頭を撫《な》でてやった。
「この間、栗原《くりはら》の家《うち》にいたやつを貰って来たんだ。」
野村は給仕の持って来た珈琲を俊助の方へ押しやりながら、また肥った指の先を着物の襟へちょいとやって、
「あすこじゃこの頃、家中《うちじゅう》がトルストイにかぶれているもんだから、こいつにも御大層なピエルと云う名前がついている。僕はこいつより、アンドレエと云う犬の方が欲しかったんだが、僕自身ピエルだから、何でもピエルの方をつれて行けと云うんで、とうとうこいつを拝領させられてしまったんだ。」
と、俊助は珈琲茶碗を唇《くちびる》へ当てながら、人の悪い微笑を浮べて、調戯《からか》うように野村を一瞥した。
「まあピエルで満足しとくさ。その代りピエルなら、追っては目出度くナタシアとも結婚出来ようと云うもんだ。」
野村もこれには狼狽《ろうばい》したものと見えて、しばらくは顔を所斑《ところまだら》に赤くしたが、それでも声だけはゆっくりした調子で、
「僕はピエルじゃない。と云って勿論アンドレエでもないが――」
「ないが、とにかく初子女史《はつこじょし》のナタシアたる事は認めるだろう。」
「そうさな、まあ御転婆《おてんば》な点だけは幾分認めない事もないが――」
「序《ついで》に全部認めちまうさ。――そう云えばこの頃初子女史は、『戦争と平和』に匹敵《ひってき》するような長篇小説を書いているそうじゃないか。どうだ、もう追《おっ》つけ完成しそうかね。」
俊助はようやく鋒芒《ほうぼう》をおさめながら、短くなった金口《きんぐち》を灰皿の中へ抛《ほう》りこんで、やや皮肉にこう尋ねた。
六
「実はその長篇小説の事で、今日は君に来て貰ったんだが。」
野村は鉄縁《てつぶち》の眼鏡を外《はず》すと、刻銘《こくめい》に手巾《ハンケチ》で玉の曇りを拭いながら、
「初子《はつこ》さんは何でも、新しい『女の一生』を書く心算《つもり》なんだそうだ。まあ 〔Une Vie a` la Tolstoi:〕 と云う所なんだろう。そこでその女主人公《じょしゅじんこう》と云うのが、いろいろ数奇《さっき》な運命に弄《もてあそ》ばれた結果だね。――」
「それから?」
俊助《しゅんすけ》は鼻を黄水仙の鉢へ持って行きながら、格別気乗りもしていなさそうな声でこう云った。が、野村は細い眼鏡の蔓《つる》を耳の後《うしろ》へからみつけると、相不変《あいかわらず》落着き払った調子で、
「最後にどこかの癲狂院《てんきょういん》で、絶命する事になるんだそうだ。ついてはその癲狂院の生活を描写したいんだが、生憎《あいにく》初子さんはまだそう云う所へ行って見た事がない。だからこの際《さい》誰かの紹介を貰って、どこでも好《い》いから癲狂院を見物したいと云っているんだ。――」
俊助はまた金口《きんぐち》に火を付けながら、半ば皮肉な表情を浮べた眼で、もう一度「それから?」と云う相図《あいず》をした。
「そこで君から一つ、新田《にった》さんへ紹介してやって貰いたいんだが――新田さんと云うんだろう。あの物質主義者《マテリアリスト》の医学士は?」
「そうだ――じゃともかくも手紙をやって、向うの都合《つごう》を問い合せて見よう。多分差支えはなかろうと思うんだが。」
「そうか。そうして貰えれば、僕の方は非常に難有《ありがた》いんだ。初子さんも勿論《もちろん》大喜びだろう。」
野村は満足そうに眼を細くして、続けさまに二三度大島の襟を直しながら、
「この頃はまるでその『女の一生』で夢中になっているんだから。一しょにいる親類の娘なんぞをつかまえても、始終その話ばかりしているらしい。」
俊助は黙って、埃及《エジプト》の煙を吐き出しながら、窓の外の往来へ眼を落した。まだ霧雨《きりあめ》の降っている往来には、細い銀杏《いちょう》の並木が僅に芽を伸ばして、亀《かめ》の甲羅《こうら》に似た蝙蝠傘《こうもりがさ》が幾つもその下を動いて行く。それがまた何故《なぜ》か彼の記憶に、刹那の間さっき遇《あ》った女の眼を思い出させた。……
「君は『城』同人の音楽会へは行かないのか。」
しばらく沈黙が続いた後《あと》で、野村はふと思出したようにこう尋ねた。と同時に俊助は、彼の心が何分かの間、ほとんど白紙のごとく空《むな》しかったのに気がついた。彼はちょいと顔をしかめて、冷《つめた》くなった珈琲を飲み干すと、すぐに以前のような元気を恢復して、
「僕は行こうと思っている。君は?」
「僕は今朝《けさ》郁文堂《いくぶんどう》で大井《おおい》君に言伝《ことづ》てを頼んだら何でも買ってくれと云うので、とうとう一等の切符を四枚押つけられてしまった。」
「四枚とはまたひどく奮発したものじゃないか。」
「何、どうせ三枚は栗原で買って貰うんだから。――こら、ピエル。」
今まで俊助の足下《あしもと》に寝ころんでいた黒犬は、この時急に身を起すと、階段の上り口を睨《にら》みながら、凄《すさま》じい声で唸《うな》り出した。犬の気色《けしき》に驚いた野村と俊助とは、黄水仙《きずいせん》の鉢を隔てて向い合いながら、一度にその方へ振り返った。するとちょうどそこにはあの土耳其帽《トルコぼう》の藤沢が、黒いソフトをかぶった大学生と一しょに、雨に濡れた外套を給仕の手に渡している所だった。
七
一週間の後《のち》、俊助《しゅんすけ》は築地《つきじ》の精養軒《せいようけん》で催される『城』同人の音楽会へ行った。音楽会は準備が整わないとか云う事で、やがて定刻の午後六時が迫って来ても、容易に開かれる気色《けしき》はなかった。会場の次の間には、もう聴衆が大勢つめかけて、電燈の光も曇るほど盛に煙草の煙を立ち昇らせていた。中には大学の西洋人の教師も、一人二人は来ているらしかった。俊助は、大きな護謨《ごむ》の樹の鉢植が据えてある部屋の隅に佇《たたず》みながら、別に開会を待ち兼ねるでもなく、ぼんやり周囲の話し声に屈托《くったく》のない耳を傾けていた。
するとどこからか大井篤夫《おおいあつお》が、今日は珍しく制服を着て、相不変《あいかわらず》傲然《ごうぜん》と彼の側へ歩いて来た。二人はちょいと点頭《てんとう》を交換した。
「野村はまだ来ていないか。」
俊助がこう尋ねると、大井は胸の上に両手を組んで、反身《そりみ》にあたりを見廻しながら、
「まだ来ないようだ。――来なくって仕合せさ。僕は藤沢《ふじさわ》にひっぱられて来たもんだから、もうかれこれ一時間ばかり待たされている。」
俊助は嘲《あざけ》るように微笑した。
「君がたまに制服なんぞ着て来りゃ、どうせ碌《ろく》な事はありゃしない。」
「これか。これは藤沢の制服なんだ。彼|曰
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