トいたんだ。」
大井はこう云いながら、殺気立った眉をひそめて、七八杯目のウイスキイをまずそうにぐいと飲み干した。
三十三
俊助《しゅんすけ》はしばらく口を噤《つぐ》んで、大井《おおい》の指にある金口《きんぐち》がぶるぶる震えるのを眺めていた。と、大井はその金口を灰皿の中へ抛りこんで、いきなり卓子《テエブル》越しに俊助の手をつかまえると、
「おい。」と、切迫した声を出した。
俊助は返事をする代りに、驚いた眼を挙げて、ちょいと大井の顔を見た。
「おい、君はまだ覚えているだろう、僕があの七時の急行の窓で、女の見送り人に手巾《ハンケチ》を振っていた事があるのを。」
「勿論覚えている。」
「じゃ聞いてくれ。僕はあの女とこの間まで同棲していたんだ。」
俊助は好奇心が動くと共に、もう好い加減にアルコオル性の感傷主義《センティメンタリズム》は御免を蒙りたいと云う気にもなった。のみならず、周囲の卓子《テエブル》を囲んでいる連中が、さっきからこちらへ迂散《うさん》らしい視線を送っているのも不快だった。そこで彼は大井の言葉には曖昧《あいまい》な返事を与えながら、帳場の側に立っているお藤《ふじ》に、「来い」と云う相図《あいず》をして見せた。が、お藤がそこを離れない内に、最初彼の食事の給仕をした女が、急いで卓子《テエブル》の前へやって来た。
「勘定《かんじょう》をしてくれ。この方《かた》の分も一しょだ。」
すると大井は俊助の手を離して、やはり眼に涙を湛えたまま、しげしげと彼の顔を眺めたが、
「おい、おい、勘定を払ってくれなんていつ云った? 僕はただ、聞いてくれと云ったんだぜ。聞いてくれりゃ好し、聞いてくれなけりゃ――そうだ。聞いてくれなけりゃ、さっさと帰ったら好いじゃないか。」
俊助は勘定をすませると、新に火をつけた煙草を啣《くわ》えながら、劬《いたわ》るような微笑を大井に見せて、
「聞くよ。聞くが、ね、我々のように長く坐りこんじゃ、ここの家《うち》も迷惑だろう。だから一まず外へ出た上で、聞く事にしようじゃないか。」
大井はやっと納得《なっとく》した。が、卓子《テエブル》を離れるとなると、彼は口が達者なのとは反対に、頗《すこぶ》る足元が蹣跚《まんさん》としていた。
「好いか。おい。危いぜ。」
「冗談云っちゃいけない。高がウイスキイの十杯や十五杯――」
俊助は大井の手をとらないばかりにして、入口の硝子戸《ガラスど》の方へ歩き出した。と、そこにはもうお藤《ふじ》が、大きく硝子戸を開《あ》けながら、心配そうな眼を見張って、二人の出て来るのを待ち受けていた。彼女はそこの天井から下っている支那燈籠《しなどうろう》の光を浴びて、最前《さいぜん》よりはさらに子供らしく、それだけ俊助にはさらに美しく見えた。が、大井はまるでお藤の存在には気がつかなかったものと見えて、逞《たくまし》い俊助の手に背中を抱えられながら、口一つ利《き》かずにその前を通りすぎた。
「難有《ありがと》うございます。」
大井の後《あと》から外へ出た俊助には、こう云うお藤の言葉の中に、彼の大井に対する厚情を感謝しているような響が感じられた。彼はお藤の方を振り返って、その感謝に答うべき微笑を送る事を吝《おし》まなかった。お藤は彼等が往来へ出てしまってからも、しばらくは明《あかる》い硝子戸の前に佇《たたず》みながら、白い前掛《エプロン》の胸へ両手を合せて、次第に遠くなって行く二人の後姿を、懐しそうにじっと見守っていた。
三十四
大井《おおい》は角帽の庇《ひさし》の下に、鈴懸《すずかけ》の並木を照らしている街燈の光を受けるが早いか、俊助《しゅんすけ》の腕へすがるようにして、
「じゃ聞いてくれ。迷惑だろうが、聞いてくれ。」と、執念《しゅうね》くさっきの話を続け出した。
俊助も今度は約束した手前、一時を糊塗《こと》する訳にも行かなかった。
「あの女は看護婦でね、僕が去年の春|扁桃腺《へんとうせん》を煩《わずら》った時に――まあ、そんな事はどうでも好い、とにかく僕とあの女とは、去年の春以来の関係なんだ。それが君、どうして別れるようになったと思う? 単にあの女が僕に惚れたからなんだ。と云うよりゃ偶然の機会で、惚れていると云う事を僕に見せてしまったからなんだ。」
俊助は絶えず大井の足元を顧慮しながら、街燈の下を通りすぎる毎に、長くなったり短くなったりする彼等の影を、アスファルトの上に踏んで行った。そうしてややもすると散漫になり勝ちな注意を、相手の話へ集中させるのに忙しかった。
「と云ったって、何も大したいきさつがあった訳でも何でもない。ただ、あいつが僕の所へ来た手紙の事で、嫉妬《やきもち》を焼いただけの事なんだ。が、その時僕はあの女の腹の底まで見えたよう
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