顔をしかめながら、無造作《むぞうさ》に時計をポッケットへ返すと、徐《おもむろ》に逞《たくま》しい体を起して、机の上にちらかっていた色鉛筆やナイフを片づけ出した。その間《あいだ》に大井は俊助の読みかけた書物を取上げて、好《い》い加減に所々《ところどころ》開けて見ながら、
「ふん Marius the Epicurean か。」と、冷笑するような声を出したが、やがて生欠伸《なまあくび》を一つ噛《か》み殺すと、
「俊助ズィ・エピキュリアンの近況はどうだい。」
「いや、一向|振《ふる》わなくって困っている。」
「そう謙遜するなよ。女持ちの金時計をぶら下げているだけでも、僕より遥に振っているからな。」
大井は書物を抛《ほう》り出して、また両手を懐へ突こみながら、貧乏|揺《ゆす》りをし始めたが、その内に俊助が外套《がいとう》へ手を通し出すと、急に思い出したような調子で、
「おい、君は『城《しろ》』同人《どうじん》の音楽会の切符を売りつけられたか。」と真顔《まがお》になって問いかけた。
『城』と言うのは、四五人の文科の学生が「芸術の為の芸術」を標榜《ひょうぼう》して、この頃発行し始めた同人雑誌の名前である。その連中の主催する音楽会が近々|築地《つきじ》の精養軒《せいようけん》で開かれると云う事は、法文科の掲示場《けいじば》に貼ってある広告で、俊助も兼ね兼ね承知していた。
「いや、仕合せとまだ売りつけられない。」
俊助は正直にこう答えながら、書物を外套の腋《わき》の下へ挟《はさ》むと、時代のついた角帽をかぶって、大井と一しょに席を離れた。と、大井も歩きながら、狡猾《こうかつ》そうに眼を働かせて、
「そうか、僕はもう君なんぞはとうに売りつけられたと思っていた。じゃこの際是非一枚買ってやってくれ。僕は勿論『城』同人じゃないんだが、あすこの藤沢《ふじさわ》に売りつけ方《かた》を委託《いたく》されて、実は大いに困却しているんだ。」
不意打を食った俊助は、買うとか買わないとか答える前に、苦笑《くしょう》しずにはいられなかった。が、大井は黒木綿の紋附の袂《たもと》から、『城』同人の印《マアク》のある、洒落《しゃ》れた切符を二枚出すと、それをまるで花札《はなふだ》のように持って見せて、
「一等が三円で、二等が二円だ。おい、どっちにする? 一等か。二等か。」
「どっちも真平《まっぴら》だ。」
「いかん。いかん。金時計の手前に対しても、一枚だけは買う義務がある。」
二人はこんな押問答を繰返しながら、閲覧人で埋《う》まっている机の間を通りぬけて、とうとう吹き曝《さら》しの玄関へ出た。するとちょうどそこへ、真赤な土耳其《トルコ》帽をかぶった、痩《や》せぎすな大学生が一人、金釦《きんボタン》の制服に短い外套を引っかけて、勢いよく外からはいって来た。それが出合頭《であいがしら》に大井と顔を合せると、女のような優しい声で、しかもまた不自然なくらい慇懃《いんぎん》に、
「今日《こんにち》は。大井さん。」と、声をかけた。
三
「やあ、失敬。」
大井《おおい》は下駄箱《げたばこ》の前に立止ると、相不変《あいかわらず》図太い声を出した。が、その間《あいだ》も俊助《しゅんすけ》に逃げられまいと思ったのか、剃痕《そりあと》の青い顋《あご》で横柄《おうへい》に土耳其帽《トルコぼう》をしゃくって見せて、
「君はまだこの先生を知らなかったかな。仏文の藤沢慧《ふじさわさとし》君。『城』同人《どうじん》の大将株で、この間ボオドレエル詩抄と云う飜訳を出した人だ。――こっちは英文の安田俊助《やすだしゅんすけ》君。」と、手もなく二人を紹介してしまった。
そこで俊助も已《や》むを得ず、曖昧《あいまい》な微笑を浮べながら、角帽を脱いで黙礼した。が、藤沢は、俊助の世慣れない態度とは打って変った、いかにも如才《じょさい》ない調子で、
「御噂《おうわさ》は予々《かねがね》大井さんから、何かと承わって居りました。やはり御創作をなさいますそうで。その内に面白い物が出来ましたら、『城』の方へ頂きますから、どうかいつでも御遠慮なく。」
俊助はまた微笑したまま、「いや」とか「いいえ」とか好《い》い加減な返事をするよりほかはなかった。すると今まで皮肉な眼で二人を見比べていた大井が、例の切符を土耳其帽《トルコぼう》に見せると、
「今、大いに『城』同人へ御忠勤を抽《ぬき》んでている所なんだ。」と、自慢がましい吹聴《ふいちょう》をした。
「ああ、そう。」
藤沢は気味の悪いほど愛嬌《あいきょう》のある眼で、ちょいと俊助と切符とを見比べたが、すぐその眼を大井へ返して、
「じゃ一等の切符を一枚差上げてくれ給え。――失礼ですけれども、切符の御心配はいりませんから、聴きにいらして下さいませんか。」
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