わしい二重瞼《ふたえまぶた》だった。着物は――黒い絹の地へ水仙《すいせん》めいた花を疎《まばら》に繍《ぬ》い取った肩懸けが、なだらかな肩から胸へかけて無造作《むぞうさ》に垂れているよりほかに、何も俊助の眼には映らなかった。
女は俊助が首を擡《もた》げたのと前後して、遠い空から彼の上へうっとりとその黒瞳勝《くろめが》ちな目を移した。それが彼の眼と出合った時、女の視線はしばらくの間《あいだ》、止まるとも動くともつかず漂っていた。彼はその刹那《せつな》、女の長い睫毛《まつげ》の後《うしろ》に、彼の経験を超越した、得体の知れない一種の感情が揺曳《ようえい》しているような心もちがした。が、そう思う暇《ひま》もなく、女はまた眼を挙げて、向うの講堂の屋根に降る雨の脚を眺め出した。俊助は外套の肩を聳やかせて、まるで女の存在を眼中に置かない人のように、冷然とその前を通り過ぎた。三度《さんど》頭の上の雲を震わせた初雷《はつらい》の響を耳にしながら。
五
雨に濡れた俊助《しゅんすけ》が『鉢《はち》の木《き》』の二階へ来て見ると、野村《のむら》はもう珈琲茶碗《コオヒイじゃわん》を前に置いて、窓の外の往来へ退屈そうな視線を落していた。俊助は外套《がいとう》と角帽とを給仕の手に渡すが早いか、勢いよく野村の卓子《テエブル》の前へ行って、「待たせたか」と云いながら、どっかり曲木《まげき》の椅子《いす》へ腰を下した。
「うん、待たない事もない。」
ほとんど鈍重な感じを起させるほど、丸々と肥満した野村は、その太い指の先でちょいと大島の襟を直しながら、細い鉄縁《てつぶち》の眼鏡越しにのんびりと俊助の顔を見た。
「何にする? 珈琲か。紅茶か。」
「何でも好い。――今、雷《かみなり》が鳴ったろう。」
「うん、鳴ったような気もしない事はない。」
「相不変《あいかわらず》君はのんきだな。また認識の根拠は何処《いずく》にあるかとか何とか云う問題を、御苦労様にも考えていたんだろう。」
俊助は金口《きんぐち》の煙草《たばこ》に火をつけると、気軽そうにこう云って、卓子《テエブル》の上に置いてある黄水仙《きずいせん》の鉢へ眼をやった。するとその拍子《ひょうし》に、さっき大学の中で見かけた女の眼が、何故《なぜ》か一瞬間|生々《いきいき》と彼の記憶に浮んで来た。
「まさか――僕は犬と遊んでいたんだ。」
野村は子供のように微笑しながら、心もち椅子をずらせて、足下《あしもと》に寝ころんでいた黒犬を、卓子掛《テエブルクロオス》の陰からひっぱり出した。犬は毛の長い耳を振って、大きな欠伸《あくび》を一つすると、そのまままたごろりと横になって、仔細《しさい》らしく俊助の靴の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を嗅ぎ出した。俊助は金口《きんぐち》の煙を鼻へ抜きながら、気がなさそうに犬の頭を撫《な》でてやった。
「この間、栗原《くりはら》の家《うち》にいたやつを貰って来たんだ。」
野村は給仕の持って来た珈琲を俊助の方へ押しやりながら、また肥った指の先を着物の襟へちょいとやって、
「あすこじゃこの頃、家中《うちじゅう》がトルストイにかぶれているもんだから、こいつにも御大層なピエルと云う名前がついている。僕はこいつより、アンドレエと云う犬の方が欲しかったんだが、僕自身ピエルだから、何でもピエルの方をつれて行けと云うんで、とうとうこいつを拝領させられてしまったんだ。」
と、俊助は珈琲茶碗を唇《くちびる》へ当てながら、人の悪い微笑を浮べて、調戯《からか》うように野村を一瞥した。
「まあピエルで満足しとくさ。その代りピエルなら、追っては目出度くナタシアとも結婚出来ようと云うもんだ。」
野村もこれには狼狽《ろうばい》したものと見えて、しばらくは顔を所斑《ところまだら》に赤くしたが、それでも声だけはゆっくりした調子で、
「僕はピエルじゃない。と云って勿論アンドレエでもないが――」
「ないが、とにかく初子女史《はつこじょし》のナタシアたる事は認めるだろう。」
「そうさな、まあ御転婆《おてんば》な点だけは幾分認めない事もないが――」
「序《ついで》に全部認めちまうさ。――そう云えばこの頃初子女史は、『戦争と平和』に匹敵《ひってき》するような長篇小説を書いているそうじゃないか。どうだ、もう追《おっ》つけ完成しそうかね。」
俊助はようやく鋒芒《ほうぼう》をおさめながら、短くなった金口《きんぐち》を灰皿の中へ抛《ほう》りこんで、やや皮肉にこう尋ねた。
六
「実はその長篇小説の事で、今日は君に来て貰ったんだが。」
野村は鉄縁《てつぶち》の眼鏡を外《はず》すと、刻銘《こくめい》に手巾《ハンケチ》で玉の曇りを拭いながら、
「初子《はつこ》さんは何でも、
前へ
次へ
全27ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング