つきはしない。――そんな事がわかったら、わたしは――わたしは、仲間に――太郎さんに殺されてしまうじゃないの。」
 その切れ切れなことばと共に、次郎の心には、おのずから絶望的な勇気が、わいてくる。血の色を失った彼は、黙って、土にひざをつきながら、冷たい両手に堅く、沙金《しゃきん》の手をとらえた。
 彼らは二人とも、その握りあう手のうちに、恐ろしい承諾の意を感じたのである。

       五

 白い布をかかげて、家の中に一足ふみこんだ太郎は、意外な光景に驚かされた。――
 見ると、広くもない部屋《へや》の中には、廚《くりや》へ通う遣戸《やりど》が一枚、斜めに網代屏風《あじろびょうぶ》の上へ、倒れかかって、その拍子にひっくり返ったものであろう、蚊やりをたく土器《かわらけ》が、二つになってころがりながら、一面にあたりへ、燃え残った青松葉を、灰といっしょにふりまいている。その灰を頭から浴びて、ちぢれ髪の、色の悪い、肥《ふと》った、十六七の下衆女《げすおんな》が一人、これも酒肥《さかぶと》りに肥《ふと》った、はげ頭の老人に、髪の毛をつかまれながら、怪しげな麻の単衣《ひとえ》の、前もあらわに取り乱したまま、足をばたばた動かして、気違いのように、悲鳴を上げる――と、老人は、左手に女の髪をつかんで、右手に口の欠けた瓶子《へいし》を、空ざまにさし上げながら、その中にすすけた液体を、しいて相手の口へつぎこもうとする。が、液体は、いたずらに女の顔を、目と言わず、鼻と言わず、うす黒く横流れするだけで、口へは、ほとんどはいらないらしい。そこで老人は、いよいよ、気をいらって無理に女の口を、割ろうとする。女は、とられた髪も、ぬけるほど強く、頭を振って、一滴もそれを飲むまいとする。手と手と、足と足とが、互いにもつれたり、はなれたりして、明るい所から、急にうす暗い家の中へはいった、太郎の目には、どちらがどちらのからだとも、わからない。が、二人がたれだという事は、もちろん一目見て、それと知れた。――
 太郎は、草履《ぞうり》を脱ぐ間《ま》ももどかしそうに、あわただしく部屋《へや》の中へおどりこむと、とっさに老人の右の手をつかんで、苦もなく瓶子《へいし》をもぎはなしながら、怒気を帯びて、一喝《いっかつ》した。
「何をする?」
 太郎の鋭いこのことば、たちまちかみつくような、老人のことばで答えられた。
「おぬしこそ、何をする。」
「おれか。おれならこうするわ。」
 太郎は、瓶子《へいし》を投げすてて、さらに相手の左の手を、女の髪からひき離すと、足をあげて老人を、遣戸《やりど》の上へ蹴倒《けたお》した。不意の救いに驚いたのであろう、阿濃《あこぎ》はあわてて、一二|間《けん》這《は》いのいたが、老人の後《しりえ》へ倒れたのを見ると、神仏《かみほとけ》をおがむように、太郎の前へ手を合わせて、震えながら頭を下げた。と思うと、乱れた髪もつくろわずに、脱兎《だっと》のごとく身をかわして、はだしのまま、縁を下へ、白い布をひらりとくぐる。――猛然として、追いすがろうとする猪熊《いのくま》の爺《おじ》を、太郎が再び一蹴《いっしゅう》して、灰の中に倒した時には、彼女はすでに息を切らせて、枇杷《びわ》の木の下を北へ、こけつまろびつして、走っていた。………
「助けてくれ。人殺しじゃ。」
 老人は、こうわめきながら、始めの勢いにも似ず、網代屏風《あじろびょうぶ》をふみ倒して、廚《くりや》のほうへ逃げようとする。――太郎は、すばやく猿臂《えんび》をのべて、浅黄の水干《すいかん》の襟上《えりがみ》をつかみながら、相手をそこへ引き倒した。
「人殺し。人殺し。助けてくれ。親殺しじゃ。」
「ばかな事を。たれがおぬしなぞ殺すものか。」
 太郎は、ひざの下に老人を押し伏せたまま、こう高らかに、あざわらった。が、それと同時に、このおやじを殺したいという欲望が、おさえがたいほど強く、起こって来た。殺すのには、もちろんなんのめんどうもない。ただ、一突き――あの赤く皮のたるんでいる頸《うなじ》を、ただ、一突き突きさえすれば、それでもう万事が終わってしまう。突き通した太刀《たち》のきっさきが、畳へはいる手答えと、その太刀の柄《つか》へ感じて来る、断末魔の身もだえと、そうして、また、その太刀を押しもどす勢いで、あふれて来る血のにおいと、――そういう想像は、おのずから太郎の手を、葛巻《つづらま》きの太刀の柄《つか》へのばさせた。
「うそじゃ。うそじゃ。おぬしは、いつもわしを殺そうと思うている。――やい、たれか助けてくれ。人殺しじゃ。親殺しじゃ。」
 猪熊《いのくま》の爺《おじ》は、相手の心を見通したのか、またひとしきりはね起きようとして、すまいながら、必死になって、わめき立てた。
「おぬしは、なんで阿濃《あこぎ》を、
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