「おれは、悪事をつむに従って、ますます沙金《しゃきん》に愛着《あいじゃく》を感じて来た。人を殺すのも、盗みをするのも、みんなあの女ゆえである。――現に牢《ろう》を破ったのさえ、次郎を助けようと思うほかに、一人の弟を見殺しにすると、沙金にわらわれるのを、おそれたからであった。――そう思うと、なおさらおれは、何に換えても、あの女を失いたくない。
 その沙金を、おれは今、肉身の弟に奪われようとしている。おれが命を賭《か》けて助けてやった、あの次郎に奪われようとしている。奪われようとしているのか、あるいは、もう奪われているのか、それさえも、はっきりはわからない。沙金《しゃきん》の心を疑わなかったおれは、あの女がほかの男をひっぱりこむのも、よくない仕事の方便として、許していた。それから、養父との関係も、あのおじじが親の威光で、何も知らないうちに、誘惑したと思えば、目をつぶって、すごせない事はない。が、次郎との仲は、別である。
 おれと弟とは、気だてが変わっているようで、実は見かけほど、変わっていない。もっとも顔かたちは、七八年|前《まえ》の痘瘡《もがさ》が、おれには重く、弟には軽かったので、次郎は、生まれついた眉目《みめ》をそのままに、うつくしい男になったが、おれはそのために片目つぶれた、生まれもつかない不具になった。その醜い、片目のおれが、今まで沙金の心を捕えていたとすれば、(これも、おれのうぬぼれだろうか。)それはおれの魂の力に相違ない。そうして、その魂は、同じ親から生まれた弟も、おれに変わりなく持っている。しかも、弟は、たれの目にもおれよりはうつくしい。そういう次郎に、沙金が心をひかれるのは、もとより理の当然である。その上また、次郎のほうでも、おれにひきくらべて考えれば、到底あの女の誘惑に、勝てようとは思われない。いや、おれは、始終おれの醜い顔を恥じている。そうして、たいていの情事には、おのずからひかえ目になっている。それでさえ、沙金には、気違いのように、恋をした。まして、自分の美しさを知っている次郎が、どうして、あの女の見せる媚《こ》びを、返さずにいられよう。――
 こう思えば、次郎と沙金《しゃきん》とが、近づくようになるのは、無理もない。が、無理がないだけ、それだけ、おれには苦痛である。弟は、沙金をおれから奪おうとする。――それも、沙金の全部を、おれから奪おうとする。いつかは、そうして必ず。ああ、おれの失うのは、ひとり沙金ばかりではない。弟もいっしょに失うのだ。そうして、そのかわりに、次郎と言う名の敵《かたき》ができる。――おれは、敵《かたき》には用捨しない。敵《かたき》も、おれに用捨はしないだろう。そうなれば、落ち着くところは、今からあらかじめわかっている。弟を殺すか、おれが殺されるか。……)

 太郎は、死人《しびと》のにおいが、鋭く鼻を打ったのに、驚いた。が、彼の心の中の死が、におったというわけではない。見ると、猪熊《いのくま》の小路のあたり、とある網代《あじろ》の塀《へい》の下に腐爛《ふらん》した子供の死骸《しがい》が二つ、裸のまま、積み重ねて捨ててある。はげしい天日《てんぴ》に、照りつけられたせいか、変色した皮膚のところどころが、べっとりと紫がかった肉を出して、その上にはまた青蝿《あおばえ》が、何匹となく止まっている。そればかりではない。一人の子供のうつむけた顔の下には、もう足の早い蟻《あり》がついた。――
 太郎は、まのあたりに、自分の行く末を見せつけられたような心もちがした。そうして、思わず下くちびるを堅くかんだ。――
「ことに、このごろは、沙金《しゃきん》もおれを避けている。たまに会っても、いい顔をした事は、一度もない。時々はおれに面《めん》と向かって、悪口《あっこう》さえきく事がある。おれはそのたびに腹を立てた。打った事もある。蹴《け》った事もある。が、打っているうちに、蹴っているうちに、おれはいつでも、おれ自身を折檻《せっかん》しているような心もちがした。それも無理はない。おれの二十年の生涯《しょうがい》は、沙金のあの目の中に宿っている。だから沙金を失うのは、今までのおれを失うのと、変わりはない。
 沙金を失い、弟を失い、そうしてそれとともにおれ自身を失ってしまう。おれはすべてを失う時が来たのかもしれない。……)

 そう思ううちに、彼は、もう猪熊《いのくま》のばばの家の、白い布をぶら下げた戸口へ来た。まだここまでも、死人《しびと》のにおいは、伝わって来るが、戸口のかたわらに、暗い緑の葉をたれた枇杷《びわ》があって、その影がわずかながら、涼しく窓に落ちている。この木の下を、この戸口へはいった事は、何度あるかわからない。が、これからは?
 太郎は、急にある気づかれを感じて、一味の感傷にひたりながら、その目に
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