ば「わたくし小説」もさうではないか? Ich−Roman と云ふ意味は一人称を用ひた小説である。必しもその「わたくし」なるものは作家自身と定まつてはゐない。が、日本の「わたくし」小説は常にその「わたくし」なるものを作家自身とする小説である。いや、時には作家自身の閲歴談と見られたが最後、三人称を用ひた小説さへ「わたくし」小説と呼ばれてゐるらしい。これは勿論|独逸《ドイツ》人の――或は全西洋人の用法を無視した新例である。しかし全能なる「通用」はこの新例に生命を与へた。「門前雀羅を張る」の成語もいつかはこれと同じやうに意外の新例を生ずるかも知れない。
 すると或評論家は特に学識に乏しかつたのではない。唯|聊《いささ》か時流の外に新例を求むるのに急だつたのである。その評論家の揶揄《やゆ》を受けたのは、――兎に角あらゆる先覚者は常に薄命に甘んじなければならぬ。

       制限

 天才もそれ/″\乗り越え難い或制限に拘束されてゐる。その制限を発見することは多少の寂しさを与へぬこともない。が、それはいつの間にか却《かへ》つて親しみを与へるものである。丁度竹は竹であり、蔦《つた》は蔦である事を
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