りも零細なる知識を重んずるものである。この故に処女崇拝者は恋愛上の衒学者《げんがくしや》と云はなければならぬ。あらゆる処女崇拝者の何か厳然と構へてゐるのも或は偶然ではないかも知れない。

       又

 勿論処女らしさ崇拝は処女崇拝以外のものである。この二つを同義語とするものは恐らく女人の俳優的才能を余りに軽々に見てゐるものであらう。

       礼法

 或女学生はわたしの友人にかう云ふ事を尋ねたさうである。
「一体接吻をする時には目をつぶつてゐるものなのでせうか? それともあいてゐるものなのでせうか?」
 あらゆる女学校の教課の中に恋愛に関する礼法のないのはわたしもこの女学生と共に甚だ遺憾に思つてゐる。

       貝原益軒

 わたしはやはり小学時代に貝原益軒の逸事を学んだ。益軒は嘗《かつて》乗合船の中に一人の書生と一しよになつた。書生は才力に誇つてゐたと見え、滔々《たうたう》と古今の学芸を論じた。が、益軒は一言も加へず、静かに傾聴するばかりだつた。その内に船は岸に泊した。船中の客は別れるのに臨んで姓名を告げるのを例としてゐた。書生は始めて益軒を知り、この一代の大儒
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