寝ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら気楽に警戒しよう。もし喉の渇いた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸ひまだポケツトにはチヨコレエトの棒も残つてゐる。
聴き給へ、高い木木の梢に何か寝鳥の騒いでゐるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云ふことを知らないであらう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失つた為にあらゆる苦痛を味はつてゐる。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飲めぬ為にも少からぬ不自由を忍んでゐる。人間と云ふ二足の獣は何と云ふ情けない動物であらう。我我は文明を失つたが最後、それこそ風前の燈火のやうに覚束《おぼつか》ない命を守らなければならぬ。見給へ。鳥はもう静かに寝入つてゐる。羽根蒲団や枕を知らぬ鳥は!
鳥はもう静かに寝入つてゐる。夢も我我より安らかであらう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未来にも生きなければならぬ。と云ふ意味は悔恨や憂慮の苦痛をも嘗めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであらう。東京を焼かれた我我は今日の餓に苦しみ乍《なが》ら、明日の餓にも苦しんでゐる。鳥は幸ひにこの苦痛を知
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