又

 単に世間に処するだけならば、情熱の不足などは患へずとも好い。それよりも寧ろ危険なのは明らかに冷淡さの不足である。

       恒産

 恒産のないものに恒心のなかつたのは二千年ばかり昔のことである。今日では恒産のあるものは寧ろ恒心のないものらしい。

       彼等

 わたしは実は彼等夫婦の恋愛もなしに相抱いて暮らしてゐることに驚嘆してゐた。が、彼等はどう云ふ訳か、恋人同志の相抱いて死んでしまつたことに驚嘆してゐる。

       作家所生の言葉

「振《ふる》つてゐる」「高等遊民」「露悪家」「月並み」等の言葉の文壇に行はれるやうになつたのは夏目先生から始つてゐる。かう言ふ作家所生の言葉は夏目先生以後にもない訳ではない。久米正雄君所生の「微苦笑」「強気弱気」などはその最たるものであらう。なほ又「等、等、等」と書いたりするのも宇野浩二君所生のものである。我我は常に意識して帽子を脱いでゐるものではない。のみならず時には意識的には敵とし怪物とし、犬となすものにもいつか帽子を脱いでゐるものである。或作家を罵《ののし》る文章の中にもその作家の作つた言葉の出るのは必しも偶然ではないかも知れない。

       幼児

 我我は一体何の為に幼い子供を愛するのか? その理由の一半は少くとも幼い子供にだけは欺かれる心配のない為である。

       又

 我我の恬然と我我の愚を公にすることを恥ぢないのは幼い子供に対する時か、――或は――犬猫に対する時だけである。

       池大雅

「大雅は余程呑気な人で、世情に疎かつた事は、其室|玉瀾《ぎよくらん》を迎へた時に夫婦の交りを知らなかつたと云ふので略《ほぼ》其人物が察せられる。」
「大雅が妻を迎へて夫婦の道を知らなかつたと云ふ様な話も、人間離れがしてゐて面白いと云へば、面白いと云へるが、丸で常識のない愚かな事だと云へば、さうも云へるだらう。」
 かう言ふ伝説を信ずる人は、こゝに引いた文章の示すやうに今日もまだ芸術家や美術史家の間に残つてゐる。大雅は玉瀾を娶《めと》つた時に交合のことを行はなかつたかも知れない。しかしその故に交合のことを知らずにゐたと信ずるならば、――勿論その人はその人自身烈しい性欲を持つてゐる余り、苟くもちやんと知つてゐる以上、行はずにすませられる筈はないと確信してゐる為であらう。

       荻生徂徠

 荻生徂徠は煎《い》り豆を噛んで古人を罵るのを快としてゐる。わたしは彼の煎り豆を噛んだのは倹約の為と信じてゐたものゝ、彼の古人を罵つたのは何の為か一向わからなかつた。しかし今日考へて見れば、それは今人を罵るよりも確かに当り障りのなかつた為である。

       若楓

 若楓は幹に手をやつただけでも、もう梢に簇《むらが》つた芽を神経のやうに震はせてゐる。植物と言ふものゝ気味の悪さ!

       蟇

 最も美しい石竹色は確かに蟇《ひきがへる》の舌の色である。

       鴉

 わたしは或|雪霽《ゆきばれ》の薄暮、隣の屋根に止まつてゐた、まつ青な鴉を見たことがある。

       作家

 文を作るのに欠くべからざるものは何よりも創作的情熱である。その又創作的情熱を燃え立たせるのに欠くべからざるものは何よりも或程度の健康である。瑞典式《スエエデンしき》体操、菜食主義、複方《ふくはう》ヂアスタアゼ等を軽んずるのは文を作らんとするものの志ではない。

       又

 文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持つてゐなければならぬ。

       又

 文を作らんとするものゝ彼自身を恥づるのは罪悪である。彼自身を恥づる心の上には如何なる独創の芽も生へたことはない。

       又

 百足《むかで》 ちつとは足でも歩いて見ろ。
 蝶 ふん、ちつとは羽根でも飛んで見ろ。

       又

 気韻は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。若し又無理に見ようとすれば、頸《くび》の骨を折るのに了るだけであらう。

       又

 批評家 君は勤め人の生活しか書けないね?
 作家 誰か何でも書けた人がゐたかね?

       又

 あらゆる古来の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけてゐる。尤も踏み台はなかつた訳ではない。

       又

 しかしああ言ふ踏み台だけはどこの古道具屋にも転がつてゐる。

       又

 あらゆる作家は一面には指物師《さしものし》の面目を具へてゐる。が、それは恥辱ではない。あらゆる指物師も一面には作家の面目を具へてゐる。

       又

 のみならず又あらゆる作家は一面には店を開いてゐる。
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