J《むし》ろ地上に遍満した我我の愚昧《ぐまい》に依つたのである。哂ふべき、――しかし壮厳な我我の愚昧に依つたのである。
修身
道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
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道徳の与へたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与へる損害は完全なる良心の麻痺《まひ》である。
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妄《みだり》に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。
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我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆《ほとん》ど損害の外に、何の恩恵にも浴してゐない。
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強者は道徳を蹂躙《じうりん》するであらう。弱者は又道徳に愛撫されるであらう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
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道徳は常に古着である。
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良心は我我の口髭のやうに年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
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一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
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我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉へ得ぬ前に、破廉恥漢《はれんちかん》の非難を受けることである。
我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やつと良心を捉へることである。
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良心は厳粛なる趣味である。
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良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造つたことはない。
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良心もあらゆる趣味のやうに、病的なる愛好者を持つてゐる。さう云ふ愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪かである。
好悪
わたしは古い酒を愛するやうに、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我我の好悪である。或は我我の快不快である。さうとしかわたしには考へられない。
ではなぜ我我は極寒の天にも、将《まさ》に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救ふことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救ふ快を取るのは何の尺度に依つたのであらう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈である。いや、この二つの快不快は全然相容れぬものではない。寧ろ鹹水《かんすゐ》と淡水とのように、一つに融け合つてゐるものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすつぽんの汁を啜《すす》つた後、鰻《うなぎ》を菜《さい》に飯を食ふさへ、無上の快に数へてゐるではないか? 且又水や寒気などにも肉体的享楽の存することは寒中水泳の示すところである。(なほこの間の消息を疑ふものはマソヒズムの場合を考へるが好い。あの呪ふべきマソヒズムはかう云ふ肉体的快不快の外見上の倒錯に常習的傾向の加はつたものである。わたしの信ずるところによれば、或は柱頭の苦行を喜び、或は火裏《くわり》の殉教を愛した基督教の聖人たちは大抵マソヒズムに罹《かか》つてゐたらしい。)
我我の行為を決するものは昔の希臘《ギリシヤ》人の云つた通り、好悪の外にないのである。我我は人生の泉から、最大の味を汲み取らねばならぬ。『パリサイの徒の如く、悲しき面もちをなすこと勿《なか》れ。』耶蘇さへ既にさう云つたではないか。賢人とは畢竟《ひつきやう》荊蕀《けいきよく》の路にも、薔薇の花を咲かせるもののことである。
侏儒の祈り
わたしはこの綵衣《さいい》を纏ひ、この筋斗《きんと》の戯を献じ、この太平を楽しんでゐれば不足のない侏儒でございます。どうかわたしの願ひをおかなへ下さいまし。
どうか一粒の米すらない程、貧乏にして下さいますな。どうか又|熊掌《いうしやう》にさへ飽き足りる程、富裕にもして下さいますな。
どうか採桑《さいさう》の農婦すら嫌ふやうにして下さいますな。どうか又後宮の麗人さへ愛するやうにもして下さいますな。
どうか菽麦《しゆくばく》すら弁ぜぬ程、愚昧にして下さいますな。どうか又雲気さへ察する程、聡明にもして下さいますな。
とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。わたしは現に時とすると、攀《よ》ぢ難い峰の頂を窮め、越え難い海の浪を渡り――云はば不可能を可能にする夢を見ることがございます。さう云ふ夢を見てゐる時程、空恐しいことはございません。わたしは龍と闘ふやうに、この夢と闘ふのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬやうに――英雄の志を起さぬやうに力のないわたしをお守り下さいまし。
わたしはこの春酒《しゆんしゆ》に酔ひ、この金縷《
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