為であらう。

       荻生徂徠

 荻生徂徠は煎《い》り豆を噛んで古人を罵るのを快としてゐる。わたしは彼の煎り豆を噛んだのは倹約の為と信じてゐたものゝ、彼の古人を罵つたのは何の為か一向わからなかつた。しかし今日考へて見れば、それは今人を罵るよりも確かに当り障りのなかつた為である。

       若楓

 若楓は幹に手をやつただけでも、もう梢に簇《むらが》つた芽を神経のやうに震はせてゐる。植物と言ふものゝ気味の悪さ!

       蟇

 最も美しい石竹色は確かに蟇《ひきがへる》の舌の色である。

       鴉

 わたしは或|雪霽《ゆきばれ》の薄暮、隣の屋根に止まつてゐた、まつ青な鴉を見たことがある。

       作家

 文を作るのに欠くべからざるものは何よりも創作的情熱である。その又創作的情熱を燃え立たせるのに欠くべからざるものは何よりも或程度の健康である。瑞典式《スエエデンしき》体操、菜食主義、複方《ふくはう》ヂアスタアゼ等を軽んずるのは文を作らんとするものの志ではない。

       又

 文を作らんとするものは如何なる都会人であるにしても、その魂の奥底には野蛮人を一人持つてゐなければならぬ。

       又

 文を作らんとするものゝ彼自身を恥づるのは罪悪である。彼自身を恥づる心の上には如何なる独創の芽も生へたことはない。

       又

 百足《むかで》 ちつとは足でも歩いて見ろ。
 蝶 ふん、ちつとは羽根でも飛んで見ろ。

       又

 気韻は作家の後頭部である。作家自身には見えるものではない。若し又無理に見ようとすれば、頸《くび》の骨を折るのに了るだけであらう。

       又

 批評家 君は勤め人の生活しか書けないね?
 作家 誰か何でも書けた人がゐたかね?

       又

 あらゆる古来の天才は、我我凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけてゐる。尤も踏み台はなかつた訳ではない。

       又

 しかしああ言ふ踏み台だけはどこの古道具屋にも転がつてゐる。

       又

 あらゆる作家は一面には指物師《さしものし》の面目を具へてゐる。が、それは恥辱ではない。あらゆる指物師も一面には作家の面目を具へてゐる。

       又

 のみならず又あらゆる作家は一面には店を開いてゐる。
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