J《むし》ろ地上に遍満した我我の愚昧《ぐまい》に依つたのである。哂ふべき、――しかし壮厳な我我の愚昧に依つたのである。

       修身

 道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものである。
         ×
 道徳の与へたる恩恵は時間と労力との節約である。道徳の与へる損害は完全なる良心の麻痺《まひ》である。
         ×
 妄《みだり》に道徳に反するものは経済の念に乏しいものである。妄に道徳に屈するものは臆病ものか怠けものである。
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 我我を支配する道徳は資本主義に毒された封建時代の道徳である。我我は殆《ほとん》ど損害の外に、何の恩恵にも浴してゐない。
         ×
 強者は道徳を蹂躙《じうりん》するであらう。弱者は又道徳に愛撫されるであらう。道徳の迫害を受けるものは常に強弱の中間者である。
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 道徳は常に古着である。
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 良心は我我の口髭のやうに年齢と共に生ずるものではない。我我は良心を得る為にも若干の訓練を要するのである。
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 一国民の九割強は一生良心を持たぬものである。
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 我我の悲劇は年少の為、或は訓練の足りない為、まだ良心を捉へ得ぬ前に、破廉恥漢《はれんちかん》の非難を受けることである。
 我我の喜劇は年少の為、或は訓練の足りない為、破廉恥漢の非難を受けた後に、やつと良心を捉へることである。
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 良心は厳粛なる趣味である。
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 良心は道徳を造るかも知れぬ。しかし道徳は未だ嘗て、良心の良の字も造つたことはない。
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 良心もあらゆる趣味のやうに、病的なる愛好者を持つてゐる。さう云ふ愛好者は十中八九、聡明なる貴族か富豪かである。

       好悪

 わたしは古い酒を愛するやうに、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯我我の好悪である。或は我我の快不快である。さうとしかわたしには考へられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、将《まさ》に溺れんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救ふことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救ふ快を取るのは何の尺度に依つたのであらう? より大きい快を選んだのである。しか
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