ヒ》の頂を窮め、越え難い海の浪《なみ》を渡り――云わば不可能を可能にする夢を見ることがございます。そう云う夢を見ている時程、空恐しいことはございません。わたしは竜と闘うように、この夢と闘うのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬように――英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守り下さいまし。
わたしはこの春酒に酔い、この金鏤《きんる》の歌を誦《しょう》し、この好日を喜んでいれば不足のない侏儒でございます。
神秘主義
神秘主義は文明の為に衰退し去るものではない。寧ろ文明は神秘主義に長足の進歩を与えるものである。
古人は我々人間の先祖はアダムであると信じていた。と云う意味は創世記を信じていたと云うことである。今人は既に中学生さえ、猿であると信じている。と云う意味はダアウインの著書を信じていると云うことである。つまり書物を信ずることは今人も古人も変りはない。その上古人は少くとも創世記に目を曝《さ》らしていた。今人は少数の専門家を除き、ダアウインの著書も読まぬ癖に、恬然《てんぜん》とその説を信じている。猿を先祖とすることはエホバの息吹きのかかった土、――アダムを先祖とすることよりも、光彩に富んだ信念ではない。しかも今人は悉《ことごとく》こう云う信念に安んじている。
これは進化論ばかりではない。地球は円いと云うことさえ、ほんとうに知っているものは少数である。大多数は何時か教えられたように、円いと一図に信じているのに過ぎない。なぜ円いかと問いつめて見れば、上愚は総理大臣から下愚は腰弁に至る迄、説明の出来ないことは事実である。
次ぎにもう一つ例を挙げれば、今人は誰も古人のように幽霊の実在を信ずるものはない。しかし幽霊を見たと云う話は未《いまだ》に時々伝えられる。ではなぜその話を信じないのか? 幽霊などを見る者は迷信に囚《とら》われて居るからである。ではなぜ迷信に捉われているのか? 幽霊などを見るからである。こう云う今人の論法は勿論《もちろん》所謂《いわゆる》循環論法に過ぎない。
況《いわん》や更にこみ入った問題は全然信念の上に立脚している。我々は理性に耳を借さない。いや、理性を超越した何物かのみに耳を借すのである。何物かに、――わたしは「何物か」と云う以前に、ふさわしい名前さえ発見出来ない。もし強いて名づけるとすれば、薔薇《ばら》とか魚とか蝋燭《ろうそく》とか、象徴を用うるばかりである。たとえば我々の帽子でも好い。我々は羽根のついた帽子をかぶらず、ソフトや中折をかぶるように、祖先の猿だったことを信じ、幽霊の実在しないことを信じ、地球の円いことを信じている。もし嘘《うそ》と思う人は日本に於けるアインシュタイン博士、或はその相対性原理の歓迎されたことを考えるが好い。あれは神秘主義の祭である。不可解なる荘厳の儀式である。何の為に熱狂したのかは「改造」社主の山本氏さえ知らない。
すると偉大なる神秘主義者はスウエデンボルグだのベエメだのではない。実は我々文明の民である。同時に又我々の信念も三越の飾り窓と選ぶところはない。我々の信念を支配するものは常に捉え難い流行である。或は神意に似た好悪である。実際又|西施《せいし》や竜陽君《りゅうようくん》の祖先もやはり猿だったと考えることは多少の満足を与えないでもない。
自由意志と宿命と
兎《と》に角《かく》宿命を信ずれば、罪悪なるものの存在しない為に懲罰と云う意味も失われるから、罪人に対する我我の態度は寛大になるのに相違ない。同時に又自由意志を信ずれば責任の観念を生ずる為に、良心の麻痺《まひ》を免れるから、我我自身に対する我我の態度は厳粛になるのに相違ない。ではいずれに従おうとするのか?
わたしは恬然と答えたい。半ばは自由意志を信じ、半ばは宿命を信ずべきである。或は半ばは自由意志を疑い、半ばは宿命を疑うべきである。なぜと云えば我我は我我に負わされた宿命により、我我の妻を娶《めと》ったではないか? 同時に又我我は我我に恵まれた自由意志により、必ずしも妻の注文通り、羽織や帯を買ってやらぬではないか?
自由意志と宿命とに関らず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦《きょうだ》、理性と信仰、――その他あらゆる天秤《てんびん》の両端にはこう云う態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語《イギリスご》の good sense である。わたしの信ずるところによれば、グッドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁《よう》したり、大寒に団扇《うちわ》を揮《ふる》ったりする痩《や》せ我慢の幸福ばかりである。
小児
軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処
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