の共和国さえ、奴隷の存在を予想しているのは必ずしも偶然ではないのである。
又
暴君を暴君と呼ぶことは危険だったのに違いない。が、今日は暴君以外に奴隷を奴隷と呼ぶこともやはり甚だ危険である。
悲劇
悲劇とはみずから羞《は》ずる所業を敢《あえ》てしなければならぬことである。この故に万人に共通する悲劇は排泄《はいせつ》作用を行うことである。
強弱
強者とは敵を恐れぬ代りに友人を恐れるものである。一撃に敵を打ち倒すことには何の痛痒《つうよう》も感じない代りに、知《し》らず識《し》らず友人を傷つけることには児女に似た恐怖を感ずるものである。
弱者とは友人を恐れぬ代りに、敵を恐れるものである。この故に又至る処に架空の敵ばかり発見するものである。
S・Mの智慧
これは友人S・Mのわたしに話した言葉である。
弁証法の功績。――所詮《しょせん》何ものも莫迦《ばか》げていると云う結論に到達せしめたこと。
少女。――どこまで行っても清冽《せいれつ》な浅瀬。
早教育。――ふむ、それも結構だ。まだ幼稚園にいるうちに智慧の悲しみを知ることには責任を持つことにも当らないからね。
追憶。――地平線の遠い風景画。ちゃんと仕上げもかかっている。
女。――メリイ・ストオプス夫人によれば女は少くとも二週間に一度、夫に情欲を感ずるほど貞節に出来ているものらしい。
年少時代。――年少時代の憂欝《ゆううつ》は全宇宙に対する驕慢《きょうまん》である。
艱難|汝《なんじ》を玉にす。――艱難汝を玉にするとすれば、日常生活に、思慮深い男は到底玉になれない筈である。
我等如何に生くべき乎《か》。――未知の世界を少し残して置くこと。
社交
あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである。もし寸毫の虚偽をも加えず、我我の友人知己に対する我我の本心を吐露するとすれば、古《いにし》えの管鮑《かんぽう》の交りと雖《いえど》も破綻《はたん》を生ぜずにはいなかったであろう。管鮑の交りは少時問わず、我我は皆多少にもせよ、我我の親密なる友人知己を憎悪し或は軽蔑《けいべつ》している。が、憎悪も利害の前には鋭鋒《えいほう》を収めるのに相違ない。且《かつ》又軽蔑は多々益々|恬然《てんぜん》と虚偽を吐かせるものである。この故に我我の友人知己と最も親密に交る為めには、互に利害と軽蔑とを最も完全に具《そな》えなければならぬ。これは勿論《もちろん》何びとにも甚だ困難なる条件である。さもなければ我我はとうの昔に礼譲に富んだ紳士になり、世界も亦とうの昔に黄金時代の平和を現出したであろう。
瑣事
人生を幸福にする為には、日常の瑣事《さじ》を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦《そよ》ぎ、群雀《むらすずめ》の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。
人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろう。が、古池を飛び出した蛙は百年の愁を与えたかも知れない。いや、芭蕉の一生は享楽の一生であると共に、誰の目にも受苦の一生である。我我も微妙に楽しむ為には、やはり又微妙に苦しまなければならぬ。
人生を幸福にする為には、日常の瑣事《さじ》に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦《そよ》ぎ、群雀《むらすずめ》の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。
神
あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。
又
我我は神を罵殺する無数の理由を発見している。が、不幸にも日本人は罵殺するのに価いするほど、全能の神を信じていない。
民衆
民衆は穏健なる保守主義者である。制度、思想、芸術、宗教、――何ものも民衆に愛される為には、前時代の古色を帯びなければならぬ。所謂《いわゆる》民衆芸術家の民衆の為に愛されないのは必ずしも彼等の罪ばかりではない。
又
民衆の愚を発見するのは必ずしも誇るに足ることではない。が、我我自身も亦民衆であることを発見するのは兎《と》も角《かく》も誇るに足ることである。
又
古人は民衆を愚にすることを治国の大道に数えていた。丁度まだこの上にも愚にすることの出来るように。――或は又どうかすれば賢にでもすることの出来るように。
チエホフの言葉
チエホフはその手記の中に男女の差別を論じている。――「女は年をとると共に、益々女の事に従うものであり、男は年をとると共に、益々女の事から離れるものである。」
しかしこのチエホフの言葉は男女とも年をとると共に、おのずから異性との交渉に立ち入らな
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