にも生きなければならぬ。と云う意味は悔恨や憂慮の苦痛をも甞《な》めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未来の上へ寂しい暗黒を投げかけたであろう。東京を焼かれた我我は今日の餓《うえ》に苦しみ乍《なが》ら、明日の餓にも苦しんでいる。鳥は幸いにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限ったことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかりである。
小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云ったそうである。蝶――と云えばあの蟻を見給え。もし幸福と云うことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であろう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快楽をも心得ている。蟻は破産や失恋の為に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じように楽しい希望を持ち得るであろうか? 僕は未だに覚えている。月明りの仄《ほの》めいた洛陽《らくよう》の廃都に、李太白《りたいはく》の詩の一行さえ知らぬ無数の蟻の群を憐《あわれ》んだことを!
しかしショオペンハウエルは、――まあ、哲学はやめにし給え。我我は兎に角あそこへ来た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯《ただ》冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐まなければならぬ。況《いわん》や殺戮《さつりく》を喜ぶなどは、――尤《もっと》も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である。
我我は互に憐まなければならぬ。ショオペンハウエルの厭世観《えんせいかん》の我我に与えた教訓もこう云うことではなかったであろうか?
夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相不変《あいかわらず》頭の上に涼しい光を放っている。さあ、君はウイスキイを傾け給え。僕は長椅子に寐ころんだままチョコレエトの棒でも噛《かじ》ることにしよう。
地上楽園
地上楽園の光景は屡《しばしば》詩歌にもうたわれている。が、わたしはまだ残念ながら、そう云う詩人の地上楽園に住みたいと思った覚えはない。基督教徒《キリストきょうと》の地上楽園は畢竟《ひっきょう》退屈なるパノラマである。黄老の学者の地上楽園もつまりは索漠とした支那料理屋に過ぎない。況んや近代のユウトピアなどは――ウイルヤム・ジェエムスの戦慄《せんりつ》したことは何びとの記憶にも残っているであろう。
わたしの夢みている地上楽園はそう云う天然の温室ではない。同時に又そう云う学校を兼ねた食糧や衣服の配給所でもない。唯此処に住んでいれば、両親は子供の成人と共に必ず息を引取るのである。それから男女の兄弟はたとい悪人に生まれるにもしろ、莫迦には決して生まれない結果、少しも迷惑をかけ合わないのである。それから女は妻となるや否や、家畜の魂を宿す為に従順そのものに変るのである。それから子供は男女を問わず、両親の意志や感情通りに、一日のうちに何回でも聾と唖と腰ぬけと盲目とになることが出来るのである。それから甲の友人は乙の友人よりも貧乏にならず、同時に又乙の友人は甲の友人よりも金持ちにならず、互いに相手を褒め合うことに無上の満足を感ずるのである。それから――ざっとこう云う処を思えば好い。
これは何もわたし一人の地上楽園たるばかりではない。同時に又天下に充満した善男善女の地上楽園である。唯古来の詩人や学者はその金色の瞑想《めいそう》の中にこう云う光景を夢みなかった。夢みなかったのは別に不思議ではない。こう云う光景は夢みるにさえ、余りに真実の幸福に溢《あふ》れすぎているからである。
附記 わたしの甥はレムブラントの肖像画を買うことを夢みている。しかし彼の小遣いを十円貰うことは夢みていない。これも十円の小遣いは余りに真実の幸福に溢れすぎているからである。
暴力
人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。この故に往往石器時代の脳髄しか持たぬ文明人は論争より殺人を愛するのである。
しかし亦権力も畢竟はパテントを得た暴力である。我我人間を支配する為にも、暴力は常に必要なのかも知れない。或は又必要ではないのかも知れない。
「人間らしさ」
わたしは不幸にも「人間らしさ」に礼拝する勇気は持っていない。いや、屡「人間らしさ」に軽蔑《けいべつ》を感ずることは事実である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事実である。愛を?――或は愛よりも憐憫《れんびん》かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬようになったとすれば、人生は到底住するに堪えない精神病院に変りそうである。Swift の畢《つい》に発狂したのも当然の結果と云う外はない。
スウィフトは発狂する少し前に、梢《こずえ》だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟《つぶや》いた
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