をぬけ出したのは、まだ西日の照りつける、五時少し前でしたが、その時妙な事があったと云うのは、小僧の一人が揃えて出した日和下駄《ひよりげた》を突かけて、新刊書類の建看板が未に生乾きのペンキの※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を漂わしている後から、アスファルトの往来へひょいと一足踏み出すと、新蔵のかぶっている麦藁帽子の庇《ひさし》をかすめて、蝶が二羽飛び過ぎました。烏羽揚羽《うばあげは》と云うのでしょう。黒い翅《はね》の上に気味悪く、青い光沢がかかった蝶なのです。勿論その時は格別気にもしないで、二羽とも高い夕日の空へ、揉み上げられるようになって見えなくなるのを、ちらりと頭の上に仰ぎながら、折よく通りかかった上野行の電車へ飛び乗ってしまいましたが、さて須田町で乗換えて、国技館前で降りて見ると、またひらひらと麦藁帽子にまつわるのは、やはり二羽の黒い揚羽でした。が、まさか日本橋からここまで蝶が跡をつけて、来ようなどとは考えませんから、この時もやはり気にとめずに、約束の刻限にはまだ余裕もあろうと云うので、あれから一つ目の方へ曲る途中、看板に藪《やぶ》とある、小綺麗な蕎麦屋《そ
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