、ちょうど寂しい石河岸の前で、上の方だけ西日に染まった、電柱のほかに何もない――そこに新蔵はしょんぼりと、夏外套の袖を合せて、足元を眺めながら、佇《たたず》んでいました。が、やっと駈けつけた泰さんが、まだ胸が躍っていると云う調子で、「冗談じゃないぜ。驚くなと云った僕の方が、どのくらい君に驚かされたか知れやしない。一体君はあの別嬪《べっぴん》を――」と云いかけると、新蔵はもう一つ目橋の方へ落着かない歩みを運びながら、「知っているとも。あれが君、お敏《とし》なんだ。」と、興奮した声で答えたそうです。泰さんは三度びっくりした――びっくりした筈でしょう。何しろこれからその行方を見て貰おうと云う当の女が、人もあろうにお島婆さんの娘だと云う騒ぎなのですから。と云って泰さんもその娘に頼まれた、容易ならない言伝ての手前、驚いてばかりもいられますまい。そこで麦藁帽子をかぶるが早いか、二度とこの界隈へは近づくなと云うお敏の言葉を、声色同様に饒舌《しゃべ》って聞かせました。新蔵はその言葉を静に聞いていましたが、やがて眉を顰《しか》めると、迂散《うさん》らしい眼つきをして、「来てくれるなと云うのはわかるけれど
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