越して来たので、占もすれば加持《かじ》もする――それがまた飯綱《いづな》でも使うのかと思うほど、霊顕《れいけん》があると云うのです。「君も知っているだろう。ついこの間魚政の女隠居が身投げをした。――あの屍骸《しがい》がどうしても上らなかったんだが、お島婆さんにお札《ふだ》を貰って、それを一の橋から川へ抛りこむと、その日の内に浮いて出たじゃないか。しかも御札を抛りこんだ、一の橋の橋杭《はしくい》の所にさ。ちょうど日の暮の上げ潮だったが、仕合せとあすこにもやっていた、石船の船頭が見つけてね。さあ、御客様だ、土左衛門だと云う騒ぎで、早速橋詰の交番へ届けたんだろう。僕が通りかかった時にゃ、もう巡査が来ていたが、人ごみの後から覗いて見ると、上げたばかりの女隠居の屍骸が、荒菰《あらごも》をかぶせて寝かしてある、その菰の下から出た、水ぶくれの足の裏には、何だと思う、君? あの御札がぴったり斜《はす》っかけに食附いていたんだ。僕はさすがにぞっとしたね。」――と云う友だちの話を聞いた時には、新蔵もやはり背中が寒くなって、夕潮の色だの、橋杭の形だの、それからその下に漂っている女隠居の姿だの――そんな物が一度に眼の前へ、浮んで来たような気がしたそうです。が、何しろ一杯機嫌で、「そりゃ面白い。是非一つ見て貰おう。」と、負惜しみの膝を進めました。「じゃ僕が案内しよう。この間金談を見て貰いに行って以来、今じゃあの婆さんとも大分懇意になっているから。」「何分頼む。」――こう云う調子で、啣《くわ》え楊枝《ようじ》のまま与兵衛を出ると、麦藁帽子《むぎわらぼうし》に梅雨晴の西日をよけて、夏外套の肩を並べながら、ぶらりとその神下しの婆の所へ出かけたと云います。
 ここでその新蔵の心配な筋と云うのを御話しますと、家に使っていた女中の中に、お敏《とし》と云う女があって、それが新蔵とは一年越互に思い合っていたのですが、どうした訣《わけ》か去年の暮に叔母の病気を見舞いに行ったぎり、音沙汰もなくなってしまったのです。驚いたは新蔵ばかりでなく、このお敏に目をかけていた新蔵の母親も心配して、請人《うけにん》を始め伝手《つて》から伝手へ、手を廻して探しましたが、どうしても行く方が分りません。やれ、看護婦になっているのを見たの、やれ、妾《めかけ》になったと云う噂があるの、と、取沙汰だけはいろいろあっても、さて突きつめた所になると、皆目《かいもく》どうなったか知れないのです。新蔵は始|気遣《きづか》って、それからまた腹を立てて、この頃ではただぼんやりと沈んでいるばかりになりましたが、その元気のない容子が、薄々ながら二人の関係を感づいていた母親には、新しい心配の種になったのでしょう。芝居へやる。湯治を勧める。あるいは商売附合いの宴会へも父親の名代を勤めさせる――と云った具合に骨を折って、無理にも新蔵の浮かない気分を引き立てようとし始めました。そこでその日も母親が、本所界隈の小売店を見廻らせると云うのは口実で、実は気晴らしに遊んで来いと云わないばかり、紙入の中には小遣いの紙幣《しへい》まで入れてくれましたから、ちょうど東両国に幼馴染《おさななじみ》があるのを幸、その泰さんと云うのを引張り出して、久しぶりに近所の与兵衛鮨へ、一杯やりに行ったのです。
 こう云う事情がありましたから、お島婆さんの所へ行くと云っても、新蔵のほろ酔《よい》の腹の底には、どこか真剣な所があったのでしょう。一つ目の橋の袂を左へ切れて、人通りの少い竪川《たてかわ》河岸を二つ目の方へ一町ばかり行くと、左官屋と荒物屋との間に挟《はさ》まって、竹格子《たけごうし》の窓のついた、煤だらけの格子戸造りが一軒ある――それがあの神下しの婆の家だと聞いた時には、まるでお敏と自分との運命が、この怪しいお島婆さんの言葉一つできまりそうな、無気味な心もちが先に立って、さっきの酒の酔なぞは、すっかりもう醒めてしまったそうです。また実際そのお島婆さんの家と云うのが、見たばかりでも気が滅入《めい》りそうな、庇《ひさし》の低い平家建で、この頃の天気に色の出た雨落ちの石の青苔《あおごけ》からも、菌《きのこ》ぐらいは生えるかと思うぐらい、妙にじめじめしていました。その上隣の荒物屋との境にある、一抱あまりの葉柳が、窓も蔽うほど枝垂れていますから、瓦にさえ暗い影が落ちて、障子《しょうじ》一重《ひとえ》隔てた向うには、さもただならない秘密が潜んでいそうな、陰森《いんしん》としたけはいがあったと云います。
 が、泰さんは一向無頓着に、その竹格子の窓の前へ立止ると、新蔵の方を振返って、「じゃいよいよ鬼婆に見参と出かけるかな。だが驚いちゃいけないぜ。」と、今更らしい嚇《おど》しを云うのです。新蔵は勿論|嘲笑《あざわら》って、「子供じゃあるまいし。誰が婆さんくらいに
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