敏さんも振って引受けそうなもんだ。」――こう云う泰さんの言葉を聞いていると、いかにも万事が好都合に運びそうな気がしますから、いよいよ新蔵はその計画と云うのが知りたくなって、「一体何をどうする心算《つもり》なんだ。」と尋ねますと、泰さんはやはり昨夜のように、電話でもにやにや笑っている容子《ようす》で、「まあ、もう二三日待ち給え。あの婆が相手じゃ、電話だって油断がならないからね。じゃいずれまた僕の方から、電話をかける事にしよう。さようなら。」と云う始末なのです。電話を切った新蔵は、いつもの通りその後で、帳場格子《ちょうばごうし》の後へ坐りましたが、さあここ二日の間に自分とお敏との運命がきまるのだと思うと、心細いともつかず、もどかしいともつかず、そうかと云って猶更《なおさら》また嬉しいともつかず、ただ妙にわくわくした心もちになって、帳面も算盤《そろばん》も手につきません。そこでその日は、まだ熱がとれないようだと云うのを口実に、午から二階の居間で寝ていました。が、その間でも絶えず気になったのは、誰かが自分の一挙一動をじっと見つめているような心もちで、これは寝ていると起きているとに関らず、執念深くつきまとっていたそうです。現に午過ぎの三時頃には、確かに二階の梯子段《はしごだん》の上り口に、誰か蹲《うずくま》っているものがあって、その視線が葭戸越《よしどご》しに、こちらへ向けられているようでしたから、すぐに飛び起きて、そこまで出て行って見ましたが、ただ磨きこんだ廊下《ろうか》の上に、ぼんやり窓の外の空が映っているだけで、何も人間らしいものは見えませんでした。
 こう云う具合でその翌日になると、益々新蔵は気が気でなくなって、泰さんの電話がかかるのを今か今かと待っていましたが、ようやく昨日と同じ刻限《こくげん》になって、約束通り電話口へ呼び出されました。しかし出て見ると泰さんは、昨日よりさらに元気の好い声で、「とうとう君、お敏さんの返事があってね、一切僕の計画通り実行する事になったよ。何、どうして返事を受取った? また用を拵《こしら》えて、僕自身あの婆の所へ出馬したのさ。すると昨日手紙で頼んであるから、取次に出たお敏さんが、すぐに僕の手へ返事を忍ばせたんだ。可愛い返事だぜ。平仮名で『しょうちいたしました』と書いてある――」と、得意らしく弁じ立てるのです。ところが今日は妙な事に、こう云う言葉の途中から、泰さんの声ばかりでなく、もう一人誰かの声がはいりました。もっともこの声と云うのも、何と云っているのだか、言葉は皆目《かいもく》わからないのですが、とにかく勢いの好い泰さんの声とは正反対に、鼻へかかった、力のない、喘《あえ》ぐような、まだるい声が、ちょうど陰と日向《ひなた》とのように泰さんの饒舌《しゃべ》って行く間を縫って、受話器の底へ流れこむのです。始めの内は新蔵も、混線だろうくらいな量見で、別に気にもしませんでしたから、「それから、それから。」と促し立てて、懐しいお敏の消息を、夢中になって聞いていました。が、その内に泰さんにも、この妙な声が聞えたのでしょう。「何だか騒々しいな。君の方かい。」と尋ねますから、「いや僕の方じゃない。混線だろう。」と答えますと、泰さんはちょいと舌打ちをした気色で、「じゃ一度切って、またかけ直すぜ。」と云いながら、一度所か二度も三度も、交換手に小言を云っちゃ、根気よく繋《つな》ぎ直させましたが、やはり蟇《がま》の呟《つぶや》くような、ぶつぶつ云う声が聞えるのです。泰さんもしまいには我を折って、「仕方がないな。どこかに故障があるんだろう。――が、それより肝腎《かんじん》の本筋だがね、いよいよお敏さんが承知したとなりゃ、まあ、万々計画通り成功するだろうと思うから、安心して吉報を待ってい給え。」と、またさっきの話を続け出しましたが、新蔵はやはり泰さんの計画と云うのが気になるので、もう一遍昨日のように、「一体何をどうする心算《つもり》なんだ。」と尋ねますと、相手は例のごとく澄ましたもので、「もう一日辛抱し給え。明日の今時分までにゃ、きっと君にも知らせられるだろうと思うから。――まあ、そんなに急がないで、大船に乗った気で待っているさ。果報は寝て待てって云うじゃないか。」と、冗談《じょうだん》まじりに答えました。するとその声がまだ終らない内に、もう一つのぼやけた声が急に耳の側へ来て、「悪あがきは思い止らっしゃれや。」と、はっきり嘲笑《あざわら》ったじゃありませんか。泰さんと新蔵とは思わず同時に両方から、「何だ、今の声は。」と尋ね合いましたが、それぎり受話器の中はひっそりして、あの呟くような鼻声さえ全く聞えなくなってしまいました。「こりゃいけない。今のは君、あの婆だぜ。悪くすると、折角の計画も――まあ、すべてが明日の事だ。じゃこれで
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