、一生懸命に力をつけました。お敏は頬の涙の痕《あと》をそっと濡手拭で拭きながら、無言のまま悲しそうに頷きましたが、さて悄々根府川石から立上って、これも萎《しお》れ切った新蔵と一しょに、あの御影の狛犬の下を寂しい往来へ出ようとすると、急にまた涙がこみ上げて来たのでしょう。夜目にも美しい襟足を見せて、せつなそうにうつむきながら、「ああ、いっそ私は死んでしまいたい。」と、もう一度かすかにこう云いました。するとその途端です。さっき二羽の黒い蝶が消えた、例の電柱の根元の所に、大きな人間の眼が一つ、髣髴《ほうふつ》として浮び出したじゃありませんか。それも睫毛《まつげ》のない、うす青い膜がかかったような、瞳の色の濁っている、どこを見ているともつかない眼で、大きさはかれこれ三尺あまりもありましたろう。始は水の泡のようにふっと出て、それから地の上を少し離れた所へ、漂うごとくぼんやり止りましたが、たちまちそのどろりとした煤色の瞳が、斜に眥《まなじり》の方へ寄ったそうです。その上不思議な事には、この大きな眼が、往来を流れる闇ににじんで、朦朧《もうろう》とあったのに関らず、何とも云いようのない悪意の閃きを蔵しているように見えました。新蔵は思わず拳を握って、お敏の体をかばいながら、必死にこの幻を見つめたと云います。実際その時は総身の毛穴へ、ことごとく風がふきこんだかと思うほど、ぞっと背筋から寒くなって、息さえつまるような心もちだったのでしょう。いくら声を立てようと思っても、舌が動かなかったと云う事でした。が、幸その眼の方でも、しばらくは懸命の憎悪を瞳に集めて、やはりこちらを見返すようでしたが、見る見る内に形が薄くなって、最後に貝殻のような※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》が落ちると、もうそこには電柱ばかりで、何も怪しい物の姿は見えません。ただ、あの烏羽揚羽《うばあげは》のような物が、ひらひら飛び立ったように見えたそうですが、それは事によると、地を掠《かす》めた蝙蝠《こうもり》だったかも知れますまい。その後で新蔵とお敏とは、まるで悪い夢からでも醒めたように、うっとり色を失った顔を見合せましたが、たちまち互の眼の中に恐しい覚悟の色を読み合うと、我知らずしっかり手をとり交して、わなわな身ぶるいしたと云う事です。
それから三十分ばかり経った後、新蔵はまだ眼の色を変えたまま、風通しの好い裏座敷で、主人の泰さんを前にしながら、今夜出合ったさまざまな不思議な事を、小声でひそひそと話していました。二羽の黒い蝶の事、お島婆さんの秘密の事、大きな眼の幻の事――すべてが現代の青年には、荒唐無稽《こうとうむけい》としか思われない事ですが、兼ねてあの婆の怪しい呪力《じゅりき》を心得ている泰さんは、さらに疑念を挟む気色もなく、アイスクリイムを薦《すす》めながら、片唾《かたず》を呑んで聞いてくれるのです。「その大きな眼が消えてしまうと、お敏はまっ蒼な顔をして、『どうしましょう。ここであなたと御目にかかったのが、もう御婆さんに知れてしまいました。』と云うんだ。が、僕は『こうなったが最後、あの婆と我々との間には、戦争が始まったのも同様なんだから、知れようが知れまいが、かまうもんか。』って威張ったんだがね。困った事には今も話した通り、僕は明日またあの石河岸で、お敏と落合う約束がしてあるだろう。ところが今夜の出合いがあの婆に見つかったとなると、恐らく明日はお敏を手放して、出さないだろうと思うんだ。だからよしんばあの婆の爪の下から、お敏を救い出す名案があってもだね、おまけにその名案が今日明日中に思いついたにしてもだ。明日の晩お敏に逢えなけりゃ、すべての計画が画餅《がへい》になる訣《わけ》だろう。そう思ったら、僕はもう、神にも仏にも見放されたような心もちがしてね。お敏に別れてここへ来るまでの間も、まるで足は地に着いていないような心もちだった。」――新蔵はこう委細《いさい》を話し終ると、思い出したように団扇《うちわ》を使いながら、心配そうに泰さんの顔を窺《うかが》いました。が、泰さんは存外驚かずに、しばらくはただ軒先の釣荵《つりしのぶ》が風にまわるのを見ていましたが、ようやく新蔵の方へ眼を移すと、それでもちょいと眉をひそめて、「つまり君が目的を達するにゃ、三重の難関がある訣だね。第一に君はお島婆さんの手から、安全にだね、安全にお敏さんを奪い取らなければならない。第二にそれも明後日までには、是非共実行する必要がある。それからその実行上の打合せをするために、明日中にお敏さんに逢って置きたい、――と云うのが第三の難関だろう。そこでこの第三の難関はだね。第一第二の難関さえ切り抜けられりゃ、どうにでもなると思うんだ。」と、自信があるらしい口調で云うのです。新蔵はまだ浮かない顔をしたまま
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