おち寝てもいられないような気がしますから、四日目には床を離れるが早いか、とにもかくにも泰《たい》さんの所へ、知慧を借りに出かけようとすると、ちょうどそこへその泰さんの所から、電話がかかって来たじゃありませんか。しかもその電話と云うのが、ほかならないお敏の一件で、聞けば昨夜遅くなってから、泰さんの所へお敏が来た。そうして是非一度若旦那に御目にかかって、委細の話をしたいのだが、以前奉公していた御店へ、電話もまさかかけられないから、あなたに言伝《ことづ》てを頼みたい――と云う用向きだったそうです。逢いたいのは、こちらも同じ思いですから、新蔵はほとんど送話器にすがりつきそうな勢いで、「どこで逢うと云うんだろう。」と、一生懸命に問いかけますと、能弁な泰さんは、「それがさ、」とゆっくり前置きをして、「何しろあんな内気な女が、二三度会ったばかりの僕の所へ、尋ねて来ようと云うんだから、よくよく思い余っての上なんだろう。そう思うと、僕もすっかりつまされてしまってね、すぐに待合をとも考えたんだが、婆の手前は御湯へ行くと云って、出て来るんだと聞いて見りゃ、川向うは少し遠すぎるし――と云ってほかに然るべき所もないから、よろしい、僕の所の二階を明渡しましょうって云ったんだが、余り恐れ入りますからとか何とか云って、どうしても承知しない。もっともこりゃ気兼ねをするのも、無理はないと思ったから、じゃどこかにお前さんの方に、心当りの場所でもありますかって尋ねると、急に赤い顔をしたがね。小さな声で、明日の夕方、近所の石河岸《いしがし》まで若旦那様に来て頂けないでしょうかと云うんだ。野天の逢曳《あいびき》は罪がなくって好い。」と、笑を噛み殺した容子《ようす》でした。が、元より新蔵の方は笑う所の騒ぎじゃなく、「じゃ石河岸ときまったんだね。」と、もどかしそうに念を押すと、仕方がないから、そうきめて置いた、時間は六時と七時との間、用が済んだら、自分の所へも寄ってくれと云う返事です。新蔵は礼と一しょに承知の旨を答えると、早速電話を切りましたが、さあそれから日の暮までが、待遠しいの、待遠しくないのじゃありません。算盤《そろばん》を弾く。帳合いを手伝う。中元の進物の差図《さしず》をする。――その合間には、じれったそうな顔をして、帳場格子の上にある時計の針ばかり気にしていました。
そう云う苦しい思いをして、やっと店をぬけ出したのは、まだ西日の照りつける、五時少し前でしたが、その時妙な事があったと云うのは、小僧の一人が揃えて出した日和下駄《ひよりげた》を突かけて、新刊書類の建看板が未に生乾きのペンキの※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》を漂わしている後から、アスファルトの往来へひょいと一足踏み出すと、新蔵のかぶっている麦藁帽子の庇《ひさし》をかすめて、蝶が二羽飛び過ぎました。烏羽揚羽《うばあげは》と云うのでしょう。黒い翅《はね》の上に気味悪く、青い光沢がかかった蝶なのです。勿論その時は格別気にもしないで、二羽とも高い夕日の空へ、揉み上げられるようになって見えなくなるのを、ちらりと頭の上に仰ぎながら、折よく通りかかった上野行の電車へ飛び乗ってしまいましたが、さて須田町で乗換えて、国技館前で降りて見ると、またひらひらと麦藁帽子にまつわるのは、やはり二羽の黒い揚羽でした。が、まさか日本橋からここまで蝶が跡をつけて、来ようなどとは考えませんから、この時もやはり気にとめずに、約束の刻限にはまだ余裕もあろうと云うので、あれから一つ目の方へ曲る途中、看板に藪《やぶ》とある、小綺麗な蕎麦屋《そばや》を一軒見つけて、仕度|旁々《かたがた》はいったそうです。もっとも今日は謹んで、酒は一滴も口にせず、妙に胸が閊《つか》えるのを、やっと冷麦《ひやむぎ》を一つ平げて、往来の日足が消えた時分、まるで人目を忍ぶ落人のように、こっそり暖簾《のれん》から外へ出ました。するとその外へ出た所を、追いすがるごとくさっと来て、おやと思う鼻の先へ一文字に舞い上ったのは、今度も黒天鵞絨《くろびろうど》の翅の上に、青い粉を刷いたような、一対の烏羽揚羽なのです。その時は気のせいか、額へ羽搏った蝶の形が、冷やかに澄んだ夕暮の空気を、烏ほどの大きさに切抜いたかと思いましたが、ぎょっとして思わず足を止めると、そのまますっと小さくなって、互にからみ合いながら、見る見る空の色に紛れてしまいました。重ね重ねの怪しい蝶の振舞に、新蔵もさすがに怯気《おじけ》がさして、悪く石河岸なぞへ行って立っていたら、身でも投げたくなりはしないかと、二の足を踏む気さえ起ったと云います。が、それだけまた心配なのは、今夜逢いに来るお敏の身の上ですから、新蔵はすぐに心をとり直すと、もう黄昏《たそがれ》の人影が蝙蝠のようにちらほらする回向院前の往
前へ
次へ
全21ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング