、ふとそんな気がし出したんだ。」と、思いもよらない事を云い出しました。が、新蔵はやはり沈んだ調子で、「気だけだろう。」と云い捨てたまま、例の桃葉湯の看板さえ眺めもせずに歩いて行くのです。と、泰さんは蛇の目の傘で二人の行く方を指さしながら、「必ずしも気だけじゃないよ。見給え。あの車はお島婆さんの家の前へ、ちゃんと止っているじゃないか。」と得意らしく新蔵の顔を見返しました。見ると実際さっきの車は、雨を待っている葉柳《はやなぎ》が暗く条を垂らした下に、金紋のついた後をこちらへ向けて、車夫は蹴込《けこ》みの前に腰をかけているらしく、悠々と楫棒《かじぼう》を下ろしているのです。これを見た新蔵は、始めて浮かぬ顔色の底に、かすかな情熱を動かしながら、それでもまだ懶《ものう》げな最初の調子を失わないで、「だがね、君、あの婆に占を見て貰いに来る相場師だって、鍵惣とかのほかにもいるだろうじゃないか。」と面倒臭そうに答えましたが、その内にもうお島婆さんの家と隣り合った、左官屋の所まで来かかったからでしょう。泰さんはその上自説も主張しないで、油断なくあたりに気をくばりながら、まるで新蔵の身をかばうように、夏羽織の肩を摺り合せて、ゆっくり、お島婆さんの家の前を通りすぎました。通りすぎながら、二人が尻眼に容子《ようす》を窺うと、ただふだんと変っているのは、例の鍵惣が乗って来た車だけで、これは遠くで眺めたのよりもずっと手前、ちょうど左官屋の水口の前に太ゴムの轍《わだち》を威かつく止めて、バットの吸殻を耳にはさんだ車夫が、もっともそうに新聞を読んでいます。が、そのほかは竹格子の窓も、煤《すす》けた入口の格子戸も、乃至《ないし》はまだ葭戸《あしど》にも変らない、格子戸の中の古ぼけた障子の色も、すべてがいつもと変らないばかりか、家内もやはり日頃のように、陰森《いんしん》とした静かさが罩《こ》もっているように思われました。まして万一を僥倖《ぎょうこう》して来た、お敏の姿らしいものは、あのしおらしい紺絣の袂が、ひらめくのさえ眼にはいりません。ですから二人はお島婆さんの家の前を隣の荒物屋の方へ通りぬけると、今までの心の緊張が弛《ゆる》んだと云う以外にも、折角の当てが外《はず》れたと云う落胆まで背負わずにはいられませんでした。
 ところがその荒物屋の前へ来ると、浅草紙、亀《かめ》の子《こ》束子《だわし》、髪洗
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