の好い裏座敷で、主人の泰さんを前にしながら、今夜出合ったさまざまな不思議な事を、小声でひそひそと話していました。二羽の黒い蝶の事、お島婆さんの秘密の事、大きな眼の幻の事――すべてが現代の青年には、荒唐無稽《こうとうむけい》としか思われない事ですが、兼ねてあの婆の怪しい呪力《じゅりき》を心得ている泰さんは、さらに疑念を挟む気色もなく、アイスクリイムを薦《すす》めながら、片唾《かたず》を呑んで聞いてくれるのです。「その大きな眼が消えてしまうと、お敏はまっ蒼な顔をして、『どうしましょう。ここであなたと御目にかかったのが、もう御婆さんに知れてしまいました。』と云うんだ。が、僕は『こうなったが最後、あの婆と我々との間には、戦争が始まったのも同様なんだから、知れようが知れまいが、かまうもんか。』って威張ったんだがね。困った事には今も話した通り、僕は明日またあの石河岸で、お敏と落合う約束がしてあるだろう。ところが今夜の出合いがあの婆に見つかったとなると、恐らく明日はお敏を手放して、出さないだろうと思うんだ。だからよしんばあの婆の爪の下から、お敏を救い出す名案があってもだね、おまけにその名案が今日明日中に思いついたにしてもだ。明日の晩お敏に逢えなけりゃ、すべての計画が画餅《がへい》になる訣《わけ》だろう。そう思ったら、僕はもう、神にも仏にも見放されたような心もちがしてね。お敏に別れてここへ来るまでの間も、まるで足は地に着いていないような心もちだった。」――新蔵はこう委細《いさい》を話し終ると、思い出したように団扇《うちわ》を使いながら、心配そうに泰さんの顔を窺《うかが》いました。が、泰さんは存外驚かずに、しばらくはただ軒先の釣荵《つりしのぶ》が風にまわるのを見ていましたが、ようやく新蔵の方へ眼を移すと、それでもちょいと眉をひそめて、「つまり君が目的を達するにゃ、三重の難関がある訣だね。第一に君はお島婆さんの手から、安全にだね、安全にお敏さんを奪い取らなければならない。第二にそれも明後日までには、是非共実行する必要がある。それからその実行上の打合せをするために、明日中にお敏さんに逢って置きたい、――と云うのが第三の難関だろう。そこでこの第三の難関はだね。第一第二の難関さえ切り抜けられりゃ、どうにでもなると思うんだ。」と、自信があるらしい口調で云うのです。新蔵はまだ浮かない顔をしたまま
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