仔細を尋ねましたが、お敏はただ苦しそうな微笑を洩らして、「こうしている所が見つかって御覧なさいまし。私ばかりかあなたまで、どんな恐しい目に御遇いになるか知れたものではございませんよ。」と、それだけの返事しかしてくれません。その内にもう二人は、約束の石河岸の前へ来かかりましたが、お敏は薄暗がりにつくばっている御影《みかげ》の狛犬《こまいぬ》へ眼をやると、ほっと安心したような吐息をついて、その下をだらだらと川の方へ下りて行くと、根府川石《ねぶかわいし》が何本も、船から挙げたまま寝かしてある――そこまで来て、やっと立止ったそうです。恐る恐るその後から、石河岸の中へはいった新蔵は、例の狛犬の陰になって、往来の人目にかからないのを幸《さいわい》、夕じめりのした根府川石の上へ、無造作《むぞうさ》に腰を下しながら、「私の命にかかわるの、恐しい目に遇うのって、一体どうしたと云う訣《わけ》なんだい。」と、またさっきの返事を促しました。するとお敏はしばらくの間、蒼黒く石垣を浸している竪川《たてかわ》の水を見渡して、静に何か口の内で祈念しているようでしたが、やがてその眼を新蔵に返すと、始めて、嬉しそうに微笑して、「もうここまで来れば大丈夫でございますよ。」と、囁くように云うじゃありませんか。新蔵は狐につままれたような顔をして、無言のままお敏の顔を見返しました。それからお敏が、自分も新蔵の側へ腰をかけて、途切《とぎ》れ勝にひそひそ話し出したのを聞くと、成程二人は時と場合で、命くらいは取られ兼ねない、恐しい敵を控えているのです。
元来あのお島婆さんと云うのは、世間じゃ母親のように思っていますが、実は遠縁の叔母とかで、お敏の両親が生きていた内は、つき合いさえしなかったものだそうです。何でも代々宮大工だったお敏の父親に云わせると、「あの婆は人間じゃねえ。嘘だと思ったら、横っ腹を見ろ。魚の鱗《うろこ》が生えてやがるじゃねえか。」とかで、往来でお島婆さんに遇ったと云っても、すぐに切火《きりび》を打ったり、浪《なみ》の花を撒《ま》いたりするくらいでした。が、その父親が歿くなって間もなく、お敏には幼馴染《おさななじみ》で母親には姪に当る、ある病身な身なし児の娘が、お島婆さんの養女になったので、自然お敏の家とあの婆の家との間にも、親類らしい往来が始まったのです。けれどもそれさえほんの一二年で、お敏は母親
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