、ちょうど寂しい石河岸の前で、上の方だけ西日に染まった、電柱のほかに何もない――そこに新蔵はしょんぼりと、夏外套の袖を合せて、足元を眺めながら、佇《たたず》んでいました。が、やっと駈けつけた泰さんが、まだ胸が躍っていると云う調子で、「冗談じゃないぜ。驚くなと云った僕の方が、どのくらい君に驚かされたか知れやしない。一体君はあの別嬪《べっぴん》を――」と云いかけると、新蔵はもう一つ目橋の方へ落着かない歩みを運びながら、「知っているとも。あれが君、お敏《とし》なんだ。」と、興奮した声で答えたそうです。泰さんは三度びっくりした――びっくりした筈でしょう。何しろこれからその行方を見て貰おうと云う当の女が、人もあろうにお島婆さんの娘だと云う騒ぎなのですから。と云って泰さんもその娘に頼まれた、容易ならない言伝ての手前、驚いてばかりもいられますまい。そこで麦藁帽子をかぶるが早いか、二度とこの界隈へは近づくなと云うお敏の言葉を、声色同様に饒舌《しゃべ》って聞かせました。新蔵はその言葉を静に聞いていましたが、やがて眉を顰《しか》めると、迂散《うさん》らしい眼つきをして、「来てくれるなと云うのはわかるけれど、来れば命にかかわると云うのは不思議じゃないか。不思議よりゃむしろ乱暴だね。」と、腹を立てたような声を出すのです。が、泰さんもただ言伝てを聞いただけで、どうした訣《わけ》とも問い質《ただ》さずに、お島婆さんの家を駈け出したのですから、いくら相手を慰めたくも、好い加減な御座なりを並べるほかは、慰めようがありません。すると新蔵はなおさらの事、別人のように黙りこんで、さっさと歩みを早めたそうですが、その内にまた与兵衛鮨の旗の出ている下へ来ると、急に泰さんの方をふり向いて、「僕はお敏に逢ってくりゃ好かった。」と、残念らしい口吻を洩しました。その時泰さんが何気なく、「じゃもう一度逢いに行くさ。」と、調戯《からか》うようにこう云った――それが後になって考えると、新蔵の心に燃えている、焔のような逢いたさへ、油をかける事になったのでしょう。ほどなく泰さんに別れると、すぐ新蔵が取って返したのは、回向院《えこういん》前の坊主軍鶏《ぼうずしゃも》で、あたりが暗くなるのを待ちながら、銚子も二三本空にしました。そうして日がとっぷり暮れると同時に、またそこを飛び出して、酒臭い息を吐きながら、夏外套の袖を後へ刎《は
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