になると、皆目《かいもく》どうなったか知れないのです。新蔵は始|気遣《きづか》って、それからまた腹を立てて、この頃ではただぼんやりと沈んでいるばかりになりましたが、その元気のない容子が、薄々ながら二人の関係を感づいていた母親には、新しい心配の種になったのでしょう。芝居へやる。湯治を勧める。あるいは商売附合いの宴会へも父親の名代を勤めさせる――と云った具合に骨を折って、無理にも新蔵の浮かない気分を引き立てようとし始めました。そこでその日も母親が、本所界隈の小売店を見廻らせると云うのは口実で、実は気晴らしに遊んで来いと云わないばかり、紙入の中には小遣いの紙幣《しへい》まで入れてくれましたから、ちょうど東両国に幼馴染《おさななじみ》があるのを幸、その泰さんと云うのを引張り出して、久しぶりに近所の与兵衛鮨へ、一杯やりに行ったのです。
 こう云う事情がありましたから、お島婆さんの所へ行くと云っても、新蔵のほろ酔《よい》の腹の底には、どこか真剣な所があったのでしょう。一つ目の橋の袂を左へ切れて、人通りの少い竪川《たてかわ》河岸を二つ目の方へ一町ばかり行くと、左官屋と荒物屋との間に挟《はさ》まって、竹格子《たけごうし》の窓のついた、煤だらけの格子戸造りが一軒ある――それがあの神下しの婆の家だと聞いた時には、まるでお敏と自分との運命が、この怪しいお島婆さんの言葉一つできまりそうな、無気味な心もちが先に立って、さっきの酒の酔なぞは、すっかりもう醒めてしまったそうです。また実際そのお島婆さんの家と云うのが、見たばかりでも気が滅入《めい》りそうな、庇《ひさし》の低い平家建で、この頃の天気に色の出た雨落ちの石の青苔《あおごけ》からも、菌《きのこ》ぐらいは生えるかと思うぐらい、妙にじめじめしていました。その上隣の荒物屋との境にある、一抱あまりの葉柳が、窓も蔽うほど枝垂れていますから、瓦にさえ暗い影が落ちて、障子《しょうじ》一重《ひとえ》隔てた向うには、さもただならない秘密が潜んでいそうな、陰森《いんしん》としたけはいがあったと云います。
 が、泰さんは一向無頓着に、その竹格子の窓の前へ立止ると、新蔵の方を振返って、「じゃいよいよ鬼婆に見参と出かけるかな。だが驚いちゃいけないぜ。」と、今更らしい嚇《おど》しを云うのです。新蔵は勿論|嘲笑《あざわら》って、「子供じゃあるまいし。誰が婆さんくらいに
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