どこへ行く。」
 下人は、老婆が屍骸《しがい》につまづきながら、慌《あは》てふためいて逃げようとする行手を塞いで、こう罵《のゝし》つた。老婆は、それでも下人をつきのけて行《ゆ》かうとする。下人は又、それを行かすまいとして、押《お》しもどす。二人は屍骸《しがい》の中で、暫、無言《むごん》のまゝ、つかみ合つた。しかし勝敗《しようはい》は、はじめから、わかつている。下人はとうとう、老婆の腕《うで》をつかんで、無理にそこへ※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]《ね》ぢ倒《たほ》した。丁度、鷄《とり》の脚のやうな、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしてゐた。さあ何をしてゐた。云へ。云はぬと、これだぞよ。」
 下人は、老婆《らうば》をつき放すと、いきなり、太刀《たち》の鞘《さや》を拂つて、白い鋼《はがね》の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は默つてゐる。兩手《りやうて》をわなわなふるはせて、肩で息《いき》を切りながら、眼を、眼球《がんきう》が※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《まぶた》の外へ出さうになる程、見開いて、唖のやうに執拗《しうね》く默つてゐる。これを見ると、下人は始《はじ》めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志《いし》に支配されてゐると云ふ事を意識《いしき》した。さうして、この意識は、今《いま》まではげしく燃えてゐた憎惡の心を何時《いつ》の間にか冷《さ》ましてしまつた。後《あと》に殘つたのは、唯、或《ある》仕事《しごと》をして、それが圓滿《ゑんまん》に成就した時の、安らかな得意《とくい》と滿足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆《らうば》を見下しながら、少し聲を柔《やはら》げてかう云つた。
「己は檢非違使《けびゐし》の廳の役人などではない。今し方この門《もん》の下を通《とほ》りかゝつた旅の者だ。だからお前に繩《なわ》をかけて、どうしようと云ふやうな事はない。唯《たゞ》、今時分、この門の上で、何《なに》をして居たのだか、それを己に話《はなし》しさへすればいいのだ。」
 すると、老婆は、見開《みひら》いてゐた眼を、一|層大《そうおほ》きくして、ぢつとその下人の顏《かほ》を見守つた。※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]の赤くなつた、肉食鳥のやうな、鋭《するど》い眼で見たのである。それから、皺《しは》で、殆、鼻と一つになつた唇を、何か物でも噛《か》んでゐるやうに動かした。細い喉で、尖つた喉佛《のどぼとけ》の動いてゐるのが見える。その時、その喉《のど》から、鴉《からす》の啼くやうな聲が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳《みゝ》へ傳はつて來た。
「この髮を拔いてな、この女の髮を拔いてな、鬘《かつら》にせうと思うたのぢや。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡《へいぼん》なのに失望した。さうして失望《しつばう》すると同時に、又前の憎惡が、冷な侮蔑《ぶべつ》と一しよに、心の中へはいつて來た。すると、その氣色《けしき》が、先方へも通じたのであらう。老婆は、片手《かたて》に、まだ屍骸の頭から奪《と》つた長い拔け毛を持《も》つたなり、蟇《ひき》のつぶやくやうな聲で、口ごもりながら、こんな事を云つた。
 成程、死人の髮《かみ》の毛《け》を拔くと云ふ事は、惡い事かも知《し》れぬ。しかし、かう云ふ死人の多くは、皆、その位な事《こと》を、されてもいゝ人間《にんげん》ばかりである。現に、自分が今、髮《かみ》を拔いた女などは、蛇《へび》を四寸ばかりづゝに切《き》つて干したのを、干魚《ほしうを》だと云つて、太刀帶《たてはき》の陣へ賣りに行つた。疫病にかゝつて死ななかつたなら、今でも賣りに行つてゐたかもしれない。しかも、この女《をんな》の賣る干魚は、味《あぢ》がよいと云ふので、太刀帶たちが、缺かさず菜料《さいれう》に買つてゐたのである。自分は、この女のした事が惡《わる》いとは思はない。しなければ、饑死《うゑじに》をするので、仕方《しかた》がなくした事だからである。だから、又今、自分《じぶん》のしてゐた事も惡い事とは思《おも》はない。これもやはりしなければ、饑死《うゑじに》をするので、仕方がなくする事だからである。さうして、その仕方がない事を、よく知つてゐたこの女は、自分のする事を許《ゆる》してくれるのにちがひないと思《おも》ふからである。――老婆は、大體こんな意味の事を云つた。
 下人は、太刀を鞘《さや》におさめて、その太刀の柄を左《ひだり》の手《て》でおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。勿論、右《みぎ》の手《て》では、赤く頬《ほゝ》に膿《うみ》を持つた大きな面皰を氣《き》にしながら、聞いてゐるのである。しかし、之を聞《き》いてゐる中に、下人の心には、或《ある》勇氣《ゆうき》が生まれて來た。それは、さつき、門《もん》の下《した》でこの男に缺けてゐた勇氣である。さうして、又《また》さつき、この門の上《うへ》へ上《あが》つて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然《ぜん/″\》、反對な方向に動《うご》かうとする勇氣である。下人は、饑死をするか盗人《ぬすびと》になるかに迷はなかつたばかりではない。その時《とき》のこの男の心もちから云へば、饑死《うゑじに》などと云ふ事は、殆、考《かんが》へる事さへ出來ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
「きつと、そうか。」
 老婆の話が完ると、下人は嘲《あざけ》るやうな聲で念《ねん》を押した。さうして、一|足《あし》前《まへ》へ出ると、不意《ふい》に、右の手を面皰から離して、老婆の襟上《えりがみ》をつかみながら、かう云つた。
「では、己が引剥《ひはぎ》をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、饑死をする體なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物《きもの》を剥ぎとつた。それから、足《あし》にしがみつかうとする老婆を、手荒《てあら》く屍骸の上へ蹴倒《けたほ》した。梯子の口までは、僅《わづか》に五歩を數へるばかりである。下人は、剥《は》ぎとつた檜肌色の着物《きもの》をわきにかゝへて、またゝく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 暫《しばらく》、死んだやうに倒れてゐた老婆が、屍骸の中《なか》から、その裸《はだか》の體を起したのは、それから間《ま》もなくの事である。老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、まだ燃《も》えてゐる火の光をたよりに、梯子《はしご》の口まで、這つて行つた。さうして、そこから、短い白髮《しらが》を倒にして、門の下を覗《のぞ》きこんだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人は、既に、雨《あめ》を冐《をか》して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。
[#地から2字上げ]――四年九月――



底本:「新選 名著復刻全集 近代文学館 芥川龍之介著 羅生門 阿蘭陀書房版」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年4月1日発行
※疑問点の確認にあたっては、「日本の文学33 羅生門」ほるぷ出版、1984(昭和59)年8月1日初版第1刷発行を参照しました。
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ、野口英司
1999年6月9日公開
2004年3月10日修正
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