男に缺けてゐた勇氣である。さうして、又《また》さつき、この門の上《うへ》へ上《あが》つて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然《ぜん/″\》、反對な方向に動《うご》かうとする勇氣である。下人は、饑死をするか盗人《ぬすびと》になるかに迷はなかつたばかりではない。その時《とき》のこの男の心もちから云へば、饑死《うゑじに》などと云ふ事は、殆、考《かんが》へる事さへ出來ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
「きつと、そうか。」
 老婆の話が完ると、下人は嘲《あざけ》るやうな聲で念《ねん》を押した。さうして、一|足《あし》前《まへ》へ出ると、不意《ふい》に、右の手を面皰から離して、老婆の襟上《えりがみ》をつかみながら、かう云つた。
「では、己が引剥《ひはぎ》をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、饑死をする體なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物《きもの》を剥ぎとつた。それから、足《あし》にしがみつかうとする老婆を、手荒《てあら》く屍骸の上へ蹴倒《けたほ》した。梯子の口までは、僅《わづか》に五歩を數へるばかりである。下人は、剥《は》ぎとつた檜肌色の着物《きもの》をわきにかゝへて、またゝく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 暫《しばらく》、死んだやうに倒れてゐた老婆が、屍骸の中《なか》から、その裸《はだか》の體を起したのは、それから間《ま》もなくの事である。老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、まだ燃《も》えてゐる火の光をたよりに、梯子《はしご》の口まで、這つて行つた。さうして、そこから、短い白髮《しらが》を倒にして、門の下を覗《のぞ》きこんだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人は、既に、雨《あめ》を冐《をか》して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。
[#地から2字上げ]――四年九月――



底本:「新選 名著復刻全集 近代文学館 芥川龍之介著 羅生門 阿蘭陀書房版」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年4月1日発行
※疑問点の確認にあたっては、「日本の文学33 羅生門」ほるぷ出版、1984(昭和59)年8月1日初版第1刷発行を参照しました。
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ、野口英司
1999年6月9日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:/
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