其包囲に陥らざるべからざるを知れり。而して彼が此胸中の画策は、源三位の乱によりて、反平氏の潮流の滔々として止るべからざるを知ると共に、直に彼をして福原遷都の英断に出でしめたり。彼が治承四年六月三日、宇治橋の戦ありて後僅に数日にして、此一挙を敢てしたる、是豈彼が烱眼の甚だ明、甚だ敏、甚だ弘なるを表すものにあらずや。福原の遷都はかくの如く彼が急進主義の経綸によつて行はれたり。然れども彼は此大計を行ふに於て、余りに急激にして、且余りに強靭なりき。約言すれば、福原の遷都は彼が長所によつて行はれ、彼が短所によつて、破れたりき。
彼は、より無学にして、しかも、より放恣なる王安石也。彼は常に一の極端より他の極端に走りたりき。彼は今日計を定めて、明日其効を見るべしと信じたりき。詳言すれば彼は理論と事実との間に、幾多の商量すべく、打算すべく、加減すべき摩擦あるを知らざりき。而して又彼は、彼が信ずる所を行はむが為には、直線的の突進を敢てするの執拗を有したりき。彼の眼中には事情の難易なく、形勢の可否なく、輿論の軽重なく、唯彼の応に行はざる可からざる目的と之を行ふべき一条の径路とを存せしのみ。王安石は云へり、「人の臣子となりては、当に四海九州の怨を避くべからず」と。彼をして答へしめば、将に云ふべし、「一門の栄華を計りては、天下の怨を避くべからず」と。然れども彼の刈りたるは、僅に彼の蒔きたるものの半ばに過ぎざりき。彼は其目的を行はむには、余りに其手段を選ばざりき。余りに輿論を重んぜざりき、余りに、単刀直入にすぎたりき。彼は、疲馬に鞭ちて、百尺の断崖を越えむと試みたり。而して、越え得べしと信じたりき。是豈、却て疲馬を死せしむるものたらざるなきを得むや。
彼が遷都の壮挙を敢てするや、彼は、桓武以来、四百年の歴史を顧みざりき。彼は「おたぎの里のあれやはてなむ」の哀歌に耳を傾けざりき。一世の輿論に風馬牛なる、かくの如くにして猶遷都の大略を行はむと欲す、豈夫得べけむや。果然、新都の老若は声を斉うして、旧都に還らむことを求めたり。而して彼の動かすべからざる自信も是に至つて、聊か※[#「奇+支」、第4水準2−13−65]傾せざる能はざりき。彼は始めて、旧都の規模に従つて福原の新都を経営するの、多大の財力を費さざる可からざるを見たり。而して此財力を得むと欲せば、遷都の不平よりも更に大なる不平を蒙らざる可からざるを見たり。しかも頭を回らして東国を望めば、蛭ヶ小島の狡児、兵衛佐頼朝は二十万の源軍を率ゐて、既に足柄の嶮を越え、旌旗剣戟岳南の原野を掩ひて、長駆西上の日将に近きにあらむとす。彼の胸中にして、自ら安ずる能はざりしや、知るべきのみ。加ふるに嫡孫維盛の恥づべき敗軍(治承四年十月)は、東国の風雲益※[#二の字点、1−2−22]急にして、革命の気運既に熟せるを報じたるに於てをや。是に於て、彼は福原に退嬰するの平氏をして、天下の怨府たらしむる所以なるを見、一歩を退くの東国の源氏をして、遠馭長駕の機を得しむるを見、遂に策を決して、旧都に還れり。嗚呼、彼が遷都の英断も、かくの如くにして、空しく失敗に陥り了りぬ。
今や、平氏の危機は目睫の間に迫り来れり。維盛の征東軍、未一矢を交へざるに空しく富士川の水禽に驚いて走りしより、近江源氏、先響の如く応じて立ち、別当湛増亦紀伊に興り、短兵疾駆、荘園を焼掠する、数を知らず。園城寺の緇衣軍、南都の円頂賊、次いで動く事、雲の如く、将に、旗鼓堂々として、平氏政府を劫さむとす。是豈、烈火の如き入道相国が、よく坐視するに堪ふる所ならむや。然り、彼は旧都に帰ると共に、直に天下を対手として、赤手をふるひて大挑戦を試みたり。彼が軌道以外の彗星的運動は、実に是に至つて其極点に達したりき。如何に彼が破壊的政策にして、果鋭峻酷なりしかは、左に掲ぐる冷なる日暦之を証して余りあるにあらずや。
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 ○治承四年十月二十三日 入道相国福原の新都を去り、同二十六日京都に入る。
 ○十二月二日 平知盛等を東国追討使として関東に向はしむ。
 ○同十日 淡路守清房をして、園城寺をうたしむ。山門の僧兵園城寺を扶けて、平軍と山科に戦ふ。
  同日 清房園城寺を火き、緇徒を屠る。
 ○同二十五日 蔵人頭重衡をして、南都に向はしむ。
 ○同廿八日 重衡、兵数千を率ゐて興福寺東大寺を火き、一宇の僧房を止めず、梟首三十余級。
 ○同廿九日 重衡都へ帰る。
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彼が駕を旧都に還してより、僅に三十余日、しかも其傍若無人の行動は、実に天下をして驚倒せしめたり。
彼は、時代の信仰を憚らずして、伽藍を火くを恐れざりき。然れども彼は僧徒の横暴を抑へむが為に、然かせるにあらず。内、自ら解体せむとする政府を率ゐ、外、猛然として来り迫る革命の気運
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