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是、東海の蜀道にあらずや。惟ふに函谷の嶮によれる秦の山川が、私闘に怯にして公戦に勇なる秦人を生めるが如く、革命の気運既に熟して天下乱を思ふの一時に際し、昂然として大義を四海に唱へ、幾多慓悍なる革命の健児を率ゐ、長駆、六波羅に迫れる旭日将軍の故郷として、はた其事業の立脚地として、恥ぢざるの地勢を有したりと云ふべし。然り、彼が一世を空うするの覇気と、彼が旗下に投ぜる木曾の健児とは、実に、木曾川の長流と木曾山脈の絶嶺とに擁せられたる、此二十里の大峡谷に養はれし也。然らば彼が家庭は如何。麻中の蓬をして直からしむものは、蓬辺の麻也。英雄の児をして英雄の児たらしむるものは其家庭也。是ハミルカルありて始めてハンニバルあり、項梁ありて始めて項羽あり、信秀ありて始めて信長あるの所以、鄭家の奴学ばずして、詩を歌ふの所以にあらずや。思うて是に至る、吾人は遂に、彼が乳人にして、しかも彼が先達たる中三権頭兼遠の人物を想見せざる能はず。彼の義仲に於ける、猶北条四郎時政の頼朝に於ける如し。彼は、より朴素なる張良にして、此は、より老猾なる范増なれども、共に源氏の胄子を擁し、大勢に乗じて中原の鹿を争はしめたるに於ては、遂に其帰趣を同くせずンばあらず。
義仲が革命の旗を飜して檄を天下に伝へむとするや、彼は踊躍して、「其料にこそ、君をば此二十年まで養育し奉りて候へ、かやうに仰せらるゝこそ八幡殿の御末とも思させましませ」と叫びたりき。「立馬呉山第一峰」の野心、此短句に躍々たるを見るべし。始め、実盛の義仲をして彼が許に在らしむるや、彼は竊に「今こそ孤にておはしますとも、武運開かば日本国の武家の主ともなりや候はむ。いかさまにも養立てて、北陸道の大将軍ともなし奉らむ」と独語したりき。彼が、雄心勃々として禁ずる能はず、機に臨ンで其驥足を伸べむと試みたる老将たりしや知るべきのみ。年少気鋭、不尽の火其胸中に燃えて止まざる我義仲にして斯老の膝下にある、焉ぞ其心躍らざるを得むや。彼が悍馬に鞭ちて疾駆するや、彼が長弓を横へて雉兎を逐ふや、彼は常に「これは平家を攻むべき手ならひ」と云へり。
かゝる家門の歴史を有し、かゝる渓谷に人となり、而してかゝる家庭に成育せる彼は、かくの如くにして其烈々たる青雲の念を鼓動せしめたり。彼は実に木曾の健児也。其一代の風雲を捲き起せるの壮心、其真率にして自ら忍ぶ能はざるの血性
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