天下を動かすと共に、社会の最も健全なる部分――平氏政府の厄介物たる、幾十の卿相、幾百の院の近臣、幾千の山法師、はた幾万の東国武士の眼中には、既に平氏政府の存在を失ひたり。彼等の脳裡には、入道相国も一具の骸骨のみ。平門の画眉涅歯も唯是瓦鶏土犬のみ。西八条の碧瓦丹檐も、亦丘山池沢のみ。要言すれば、社会の直覚的本能は、既に平氏政府の亡滅を認めたり。反言すれば、精神的革命は既に冥黙の中に、成就せられたり。夫、燈は油なければ、即ち滅し、魚は水なければ、即ち死す。天下の人心を失ひたる平氏政府が、日一日より、没落の悲運に近づきたる、豈、宜ならずとせむや。然り、桑樹に対して太息する玄徳、青山を望ンで黙測する孔明、玉璽を擁して疾呼する孫堅、蒼天を仰いで苦笑する孟徳、蛇矛を按じて踊躍する翼徳、彼等の時代は漸に来りし也。之を譬ふれば、当時の社会状態は、恰も蝕みたる老樹の如し。其仆るゝや、日を数へて待つべきのみ。天下動乱の機は、既に熟したる也。
「外よりは手もつけられぬ要害を中より破る栗のいがかな。」しかも平氏が堂上の卿相四十三人を陟罰して、後白河法皇を鳥羽殿に幽し奉り、新院に迫りて其外孫たる三歳の皇子を冊立せし横暴は、更に、其亡滅の日をして早からしめたり。是に於て、小松内大臣の薨去によりて我事成れりと抃舞したる、十のマラー、百のロベスピエールは、平氏政府の命数の既に目睫に迫れるを見ると共に、剣を撫し手に唾して、蹶起したり。
夫、天下は平氏の天下にあらず、天下は天下の天下也。平門の犬羊、いづれの日にか、其跳梁を止めむとする。
嗚呼、誰か天火を革命の聖壇に燃やして、長夜の闇を破るものぞ、誰か革命の角笛を吹いて、黒甜郷裡の逸眠を破るものぞ。果然、老樹は仆れたり。平等院頭、翩々として、ひるがへる白旗を見ずや。
然り、革命の風雲は、細心、廉悍の老将、源三位頼政の手によつて、飛ばされたり。
彼は、源摂津守頼光の玄孫、源氏一流の嫡流なりき。然れども、平治以降、彼は、平氏を扶けたるの多きを以て、対平氏関係の甚、円満なりしを以て、平氏が比較的彼を優遇したるを以て、平氏を外にしては、武臣として、未其比を見ざる、三位の高位を得たり。若し彼にして平和を愛せしめしならば、或は栄華を平氏と共にして、温なる昇平の新夢に沈睡したるやも亦知るべからず。さはれ、老驥櫪に伏す。志は千里にあり。彼は滔々たる天下と共に、太平の余
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