かを、常に哀願しているような、傷《いた》ましい目《ま》なざしだけであった。
 自分は眼を伏せたまま、給仕の手から伝票を受けとると、黙ってカッフェの入口にある帳場《ちょうば》の前へ勘定に行った。帳場には自分も顔馴染《かおなじ》みの、髪を綺麗に分けた給仕頭《きゅうじがしら》が、退屈そうに控えている。
「あすこに英語を教えている人がいるだろう。あれはこのカッフェで頼んで教えて貰うのかね。」
 自分は金を払いながら、こう尋ねると、給仕頭は戸口の往来を眺めたまま、つまらなそうな顔をして、こんな答を聞かせてくれた。
「何、頼んだ訳《わけ》じゃありません。ただ、毎晩やって来ちゃ、ああやって、教えているんです。何でももう老朽《ろうきゅう》の英語の先生だそうで、どこでも傭《やと》ってくれないんだって云いますから、大方暇つぶしに来るんでしょう。珈琲一杯で一晩中、坐りこまれるんですから、こっちじゃあんまり難有《ありがた》くもありません。」
 これを聞くと共に自分の想像には、咄嗟《とっさ》に我毛利先生の知られざる何物かを哀願している、あの眼つきが浮んで来た。ああ、毛利先生。今こそ自分は先生を――先生の健気《けなげ》な人格を始めて髣髴《ほうふつ》し得たような心もちがする。もし生れながらの教育家と云うものがあるとしたら、先生は実にそれであろう。先生にとって英語を教えると云う事は、空気を呼吸すると云う事と共に、寸刻といえども止《や》める事は出来ない。もし強《し》いて止めさせれば、丁度水分を失った植物か何かのように、先生の旺盛《おうせい》な活力も即座に萎微《いび》してしまうのであろう。だから先生は夜毎に英語を教えると云うその興味に促されて、わざわざ独りこのカッフェへ一杯の珈琲を啜《すす》りに来る。勿論それはあの給仕頭《きゅうじがしら》などに、暇つぶしを以て目《もく》さるべき悠長な性質のものではない。まして昔、自分たちが、先生の誠意を疑って、生活のためと嘲《あざけ》ったのも、今となっては心から赤面のほかはない誤謬《ごびゅう》であった。思えばこの暇つぶしと云い生活のためと云う、世間の俗悪な解釈のために、我毛利先生はどんなにか苦しんだ事であろう。元よりそう云う苦しみの中にも、先生は絶えず悠然たる態度を示しながら、あの紫の襟飾《ネクタイ》とあの山高帽《やまたかぼう》とに身を固めて、ドン・キホオテよりも勇ま
前へ 次へ
全15ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング