塗りの扉《ドア》、壁にかけた音楽会の広告なぞが、舞台面の一部でも見るように、はっきりと寒く映《うつ》っている。いや、まだそのほかにも、大理石の卓《テエブル》が見えた。大きな針葉樹の鉢も見えた。天井から下った電燈も見えた。大形な陶器の瓦斯煖炉《ガスだんろ》も見えた。その煖炉の前を囲んで、しきりに何か話している三四人の給仕の姿も見えた。そうして――こう自分が鏡の中の物象を順々に点検して、煖炉の前に集まっている給仕たちに及んだ時である。自分は彼等に囲まれながら、その卓に向っている一人の客の姿に驚かされた。それが、今まで自分の注意に上らなかったのは、恐らく周囲の給仕にまぎれて、無意識にカッフェの厨丁《コック》か何かと思いこんでいたからであろう。が、その時、自分が驚いたのは、何もいないと思った客が、いたと云うばかりではない。鏡の中に映っている客の姿が、こちらへは僅に横顔しか見せていないにも関らず、あの駝鳥《だちょう》の卵のような、禿《は》げ頭の恰好と云い、あの古色蒼然としたモオニング・コオトの容子《ようす》と云い、最後にあの永遠に紫な襟飾《ネクタイ》の色合いと云い、我《わが》毛利《もうり》先生だと云う事は、一目ですぐに知れたからである。
自分は先生を見ると同時に、先生と自分とを隔てていた七八年の歳月を、咄嗟《とっさ》に頭の中へ思い浮べた。チョイス・リイダアを習っていた中学の組長と、今ここで葉巻の煙を静に鼻から出している自分と――自分にとってその歳月は、決して短かかったとは思われない。が、すべてを押し流す「時」の流も、すでに時代を超越したこの毛利先生ばかりは、如何《いかん》ともする事が出来なかったからであろうか。現在この夜のカッフェで給仕と卓《テエブル》を分っている先生は、宛然《えんぜん》として昔、あの西日《にしび》もささない教室で読本を教えていた先生である。禿げ頭も変らない。紫の襟飾《ネクタイ》も同じであった。それからあの金切声《かなきりごえ》も――そういえば、先生は、今もあの金切声を張りあげて、忙《せわ》しそうに何か給仕たちへ、説明しているようではないか。自分は思わず微笑を浮べながら、いつかひき立たない気分も忘れて、じっと先生の声に耳を借した。
「そら、ここにある形容詞がこの名詞を支配する。ね、ナポレオンと云うのは人の名前だから、そこでこれを名詞と云う。よろしいかね。それ
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