老人に、今まで安達先生の受持っていた授業を一時嘱託した。
 自分が始めて毛利先生を見たのは、その就任当日の午後である。自分たち三年級の生徒たちは、新しい教師を迎えると云う好奇心に圧迫されて、廊下《ろうか》に先生の靴音が響いた時から、いつになくひっそりと授業の始まるのを待ちうけていた。所がその靴音が、日かげの絶えた、寒い教室の外に止《とど》まって、やがて扉《ドア》が開かれると、――ああ、自分はこう云う中《うち》にも、歴々とその時の光景が眼に浮んでいる。扉《ドア》を開いてはいって来た毛利先生は、何より先《さき》その背の低いのがよく縁日の見世物に出る蜘蛛男《くもおとこ》と云うものを聯想させた。が、その感じから暗澹たる色彩を奪ったのは、ほとんど美しいとでも形容したい、光《ひかり》滑々《かつかつ》たる先生の禿げ頭で、これまた後頭部のあたりに、種々《しょうしょう》たる胡麻塩《ごましお》の髪の毛が、わずかに残喘《ざんぜん》を保っていたが、大部分は博物《はくぶつ》の教科書に画が出ている駝鳥《だちょう》の卵なるものと相違はない。最後に先生の風采を凡人以上に超越させたものは、その怪しげなモオニング・コオトで、これは過去において黒かったと云う事実を危く忘却させるくらい、文字通り蒼然たる古色を帯びたものであった。しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾《ネクタイ》が、まるで翼をひろげた蛾《が》のように、ものものしく結ばれていたと云う、驚くべき記憶さえ残っている。だから先生が教室へはいると同時に、期せずして笑を堪《こら》える声が、そこここの隅から起ったのは、元《もと》より不思議でも何でもない。
 が、読本《とくほん》と出席簿とを抱えた毛利《もうり》先生は、あたかも眼中に生徒のないような、悠然とした態度を示しながら、一段高い教壇に登って、自分たちの敬礼に答えると、いかにも人の好さそうな、血色の悪い丸顔に愛嬌《あいきょう》のある微笑を漂わせて、
「諸君」と、金切声《かなきりごえ》で呼びかけた。
 自分たちは過去三年間、未嘗《いまだかつ》てこの中学の先生から諸君を以て遇《ぐう》せられた事は、一度もない。そこで毛利先生のこの「諸君」は、勢い自分たち一同に、思わず驚嘆の眼を見開かせた。と同時に自分たちは、すでに「諸君」と口を切った以上、その後はさしずめ授業方針か何かの大演説があるだろうと
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