嫌《きげん》をとってまでも、失職の危険を避けようとしている。だから先生が教師をしているのは、生活のために余儀なくされたので、何も教育そのものに興味があるからではない。――朧《おぼろ》げながらこんな批評を逞《たくまし》ゅうした自分は、今は服装と学力とに対する侮蔑ばかりでなく、人格に対する侮蔑さえ感じながら、チョイス・リイダアの上へ頬杖《ほおづえ》をついて、燃えさかるストオヴの前へ立ったまま、精神的にも肉体的にも、火炙《ひあぶ》りにされている先生へ、何度も生意気《なまいき》な笑い声を浴びせかけた。勿論これは、自分一人に限った事でも何でもない。現に先生をやりこめた柔道の選手なぞは、先生が色を失って謝罪すると、ちょいと自分の方を見かえって、狡猾《こうかつ》そうな微笑を洩《もら》しながら、すぐまた読本の下にある押川春浪《おしかわしゅんろう》の冒険小説を、勉強し始めたものである。
 それから休憩時間の喇叭《らっぱ》が鳴るまで、我《わが》毛利先生はいつもよりさらにしどろもどろになって、憐《あわれ》むべきロングフェロオを無二無三《むにむさん》に訳読しようとした。「Life is real, life is earnest.」――あの血色の悪い丸顔を汗ばませて、絶えず知られざる何物かを哀願しながら、こう先生の読み上げた、喉《のど》のつまりそうな金切声《かなきりごえ》は、今日《こんにち》でもなお自分の耳の底に残っている。が、その金切声の中に潜んでいる幾百万の悲惨な人間の声は、当時の自分たちの鼓膜《こまく》を刺戟すべく、余りに深刻なものであった。だからその時間中、倦怠《けんたい》に倦怠を重ねた自分たちの中には、無遠慮な欠伸《あくび》の声を洩らしたものさえ、自分のほかにも少くはない。しかし毛利先生は、ストオヴの前へ小さな体を直立させて、窓硝子をかすめて飛ぶ雪にも全然頓着せず、頭の中の鉄条《ゼンマイ》が一時にほぐれたような勢《いきおい》で、絶えず読本をふりまわしながら、必死になって叫びつづける。「Life is real, life is earnest. ―― Life is real, life is earnest.」……

       ―――――――――――――――――――――――――

 こう云う次第だったから、一学期の雇庸《こよう》期間がすぎて、再び毛利《もうり》先生の姿を見る
前へ 次へ
全15ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング