火に火をつけていた。それは勿論東京ではない。わたしの父母の住んでいた田舎《いなか》の家の縁先《えんさき》だった。すると誰かおお声に「おい、しっかりしろ」と云うものがあった。のみならず肩を揺すぶるものもあった。わたしは勿論縁先に腰をおろしているつもりだった。が、ぼんやり気がついて見ると、いつか家の後《うし》ろにある葱畠《ねぎばたけ》の前にしゃがんだまま、せっせと葱に火をつけていた。のみならずわたしのマッチの箱もいつかあらまし空《から》になっていた。――わたしは巻煙草をふかしながら、わたしの生活にはわたし自身の少しも知らない時間のあることを考えない訣《わけ》には行かなかった。こう云う考えはわたしには不安よりもむしろ無気味だった。わたしはゆうべ夢の中に片手に彼女を絞め殺した。けれども夢の中でなかったとしたら、……
モデルは次の日もやって来なかった。わたしはとうとうMと云う家へ行き、彼女の安否《あんぴ》を尋ねることにした。しかしMの主人もまた彼女のことは知らなかった。わたしはいよいよ不安になり、彼女の宿所を教えて貰った。彼女は彼女自身の言葉によれば谷中三崎町《やなかさんさきちょう》にいるはずだった。が、Mの主人の言葉によれば本郷東片町《ほんごうひがしかたまち》にいるはずだった。わたしは電燈のともりかかった頃に本郷東片町の彼女の宿へ辿《たど》り着いた。それはある横町にある、薄赤いペンキ塗りの西洋洗濯屋だった。硝子戸《ガラスど》を立てた洗濯屋の店にはシャツ一枚になった職人が二人せっせとアイロンを動かしていた。わたしは格別急がずに店先の硝子戸をあけようとした。が、いつか硝子戸にわたしの頭をぶつけていた。この音には勿論職人たちをはじめ、わたし自身も驚かずにはいられなかった。
わたしは怯《お》ず怯《お》ず店の中にはいり、職人たちの一人に声をかけた。
「………さんと云う人はいるでしょうか?」
「………さんはおとといから帰って来ません。」
この言葉はわたしを不安にした。が、それ以上尋ねることはやはりわたしには考えものだった。わたしは何かあった場合に彼等に疑いをかけられない用心をする気もちも持ち合せていた。
「あの人は時々うちをあけると、一週間も帰って来ないんですから。」
顔色の悪い職人の一人はアイロンの手を休めずにこう云う言葉も加えたりした。わたしは彼の言葉の中にはっきり軽蔑に近いものを感じ、わたし自身に腹を立てながら、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》この店を後《うし》ろにした。しかしそれはまだ善かった。わたしは割にしもた[#「しもた」に傍点]家の多い東片町の往来を歩いているうちにふといつか夢の中にこんなことに出合ったのを思い出した。ペンキ塗りの西洋洗濯屋も、顔色の悪い職人も、火を透《す》かしたアイロンも――いや、彼女を尋ねて行ったことも確かにわたしには何箇月か前の(あるいはまた何年か前の)夢の中に見たのと変らなかった。のみならずわたしはその夢の中でもやはり洗濯屋を後ろにした後、こう云う寂しい往来をたった一人歩いていたらしかった。それから、――それから先の夢の記憶は少しもわたしには残っていなかった。けれども今何か起れば、それもたちまちその夢の中の出来事になり兼ねない心もちもした。………
[#地から1字上げ](昭和二年)
底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月13日修正
青空文庫作成ファイル:
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