一人は今笑ったのと、全然別人に違いないのだ。では今笑った赤帽の顔は、今度こそ見覚えが出来たかと云うと、不相変《あいかわらず》記憶がぼんやりしている。いくら一生懸命に思い出そうとしても、あいつの頭には赤帽をかぶった、眼鼻のない顔より浮んで来ない。――これが千枝子の口から聞いた、二度目の妙な話なのだ。
 その後《ご》一月ばかりすると、――君が朝鮮へ行ったのと、確か前後していたと思うが、実際夫が帰って来た。右の腕を負傷していたために、しばらく手紙が書けなかったと云う事も、不思議にやはり事実だった。「千枝子さんは旦那様思いだから、自然とそんな事がわかったのでしょう。」――僕の妻《さい》なぞはその当座、こう云ってはあいつをひやかしたものだ。それからまた半月ばかりの後《のち》、千枝子夫婦は夫の任地の佐世保《させほ》へ行ってしまったが、向うへ着くか着かないのに、あいつのよこした手紙を見ると、驚いた事には三度目の妙な話が書いてある。と云うのは千枝子夫婦が、中央停車場を立った時に、夫婦の荷を運んだ赤帽が、もう動き出した汽車の窓へ、挨拶《あいさつ》のつもりか顔を出した。その顔を一目見ると、夫は急に変な顔をしたが、やがて半ば恥かしそうに、こう云う話をし出したそうだ。――夫がマルセイユに上陸中、何人かの同僚と一しょに、あるカッフェへ行っていると、突然日本人の赤帽が一人、卓子《テーブル》の側へ歩み寄って、馴々《なれなれ》しく近状を尋ねかけた。勿論マルセイユの往来に、日本人の赤帽なぞが、徘徊《はいかい》しているべき理窟《りくつ》はない。が、夫はどう云う訳か格別不思議とも思わずに、右の腕を負傷した事や帰期《きき》の近い事なぞを話してやった。その内に酔《よ》っている同僚の一人が、コニャックの杯《さかずき》をひっくり返した。それに驚いてあたりを見ると、いつのまにか日本人の赤帽は、カッフェから姿を隠していた。一体あいつは何だったろう。――そう今になって考えると、眼は確かに明いていたにしても、夢だか実際だか差別がつかない。のみならずまた同僚たちも、全然赤帽の来た事なぞには、気がつかないような顔をしている。そこでとうとうその事については、誰にも打ち明けて話さずにしまった。所が日本へ帰って来ると、現に千枝子は、二度までも怪しい赤帽に遇《あ》ったと云う。ではマルセイユで見かけたのは、その赤帽かと思いもしたが、余り怪談じみているし、一つには名誉の遠征中も、細君の事ばかり思っているかと、嘲《あざけ》られそうな気がしたから、今日《きょう》まではやはり黙っていた。が、今顔を出した赤帽を見たら、マルセイユのカッフェにはいって来た男と、眉毛《まゆげ》一つ違っていない。――夫はそう話し終ってから、しばらくは口を噤《つぐ》んでいたが、やがて不安そうに声を低くすると、「しかし妙じゃないか? 眉毛一つ違わないと云うものの、おれはどうしてもその赤帽の顔が、はっきり思い出せないんだ。ただ、窓越しに顔を見た瞬間、あいつだなと……」

 村上《むらかみ》がここまで話して来た時、新にカッフェへはいって来た、友人らしい三四人が、私《わたし》たちの卓子《テーブル》へ近づきながら、口々に彼へ挨拶《あいさつ》した。私は立ち上った。
「では僕は失敬しよう。いずれ朝鮮へ帰る前には、もう一度君を訪ねるから。」
 私はカッフェの外へ出ると、思わず長い息を吐《つ》いた。それはちょうど三年以前、千枝子《ちえこ》が二度までも私と、中央停車場に落ち合うべき密会《みっかい》の約を破った上、永久に貞淑な妻でありたいと云う、簡単な手紙をよこした訳が、今夜始めてわかったからであった。…………
[#地から1字上げ](大正九年十二月)



底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月9日修正
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