を用ふるかどうかは幾分か見当《けんたう》のつかぬこともない。尤《もつと》も僕等が何かの拍子《ひやうし》に四《よ》つ這《ば》ひになつて見たいやうに、未《いま》だ生まれざる大詩人も何かの拍子《ひやうし》に短歌の形式を用ふる気もちになるかも知れぬ。しかしそれは例外とし、まづ一般に短歌の形式が将来の詩人の感情を盛《も》るに足るかどうかは考へられぬ筈である。
然るに元来短歌なるものは格別他の抒情詩と変りはない。変りのあるのは三十一文字に限られてゐる形式ばかりである。若し三十一文字と云ふ形式に限られてゐる為に、その又形式に纏綿《てんめん》した或短歌的情調の為に盛ることは出来ぬと云ふならば、それは明治大正の間《かん》の歌よみの仕事を無視したものであらう。たとへば斎藤《さいとう》氏や北原《きたはら》氏の歌は前人の少しも盛らなかつた感情を盛つてゐる筈である。しかし更に懐疑的《くわいぎてき》になれば、明治大正の間《かん》の歌よみの短歌も或は猪口《ちよく》でシロツプを嘗《な》めてゐると言はれるかも知れぬ。かう云ふ問題になつて来ると、素人《しろうと》の僕には見当がつかない。唯僕に言はせれば、たとへば斎藤氏や
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