ち並んだ無数のバラツクを眺めた時には実際烈しい流転《るてん》の相《さう》に驚かない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。僕の「大溝」を思ひ出したり、その又「大溝」に釣をしてゐた叔父を思ひ出したりすることも必《かならず》しも偶然ではないのである。

     両国

 両国《りやうごく》の鉄橋は震災前《しんさいぜん》と変らないといつても差支《さしつか》へない。唯鉄の欄干《らんかん》の一部はみすぼらしい木造に変つてゐた。この鉄橋の出来たのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛形《くしがた》の鉄橋には懐古の情も起つて来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜《あいじやく》を感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日《こんにち》よりも下流にかゝつてゐた。僕は時々この橋を渡り、浪《なみ》の荒い「百本杭《ひやつぽんぐひ》」や芦《あし》の茂つた中洲《なかず》を眺めたりした。中洲に茂つた芦は勿論、「百本杭」も今は残つてゐない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸《かし》に近い水の中に何本も立つてゐた乱杭《らんぐひ》である。昔の芝居は殺《ころ》し場《ば》などに多田《ただ》の薬師《やくし》の石切場《いしきりば》と一しよに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸《かし》を使つてゐた。僕は夜は「百本杭」の河岸《かし》を歩いたかどうかは覚えてゐない。が、朝は何度もそこに群《むら》がる釣師の連中を眺めに行つた。O君は僕のかういふのを聞き、大川《おほかは》でも魚《さかな》の釣れたことに多少の驚嘆を洩《も》らしてゐた。一度も釣竿を持つたことのない僕は「百本杭」で釣れた魚の何《なん》と何《なん》だつたかを知つてゐない。しかし或夏の夜明けにこの河岸《かし》へ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人《ひとり》もそこに来てゐなかつた。その代りに杭の間《あひだ》には坊主《ばうず》頭の土左衛門《どざゑもん》が一人《ひとり》俯向《うつむ》けに浪に揺すられてゐた。……
 両国橋《りやうごくばし》の袂《たもと》にある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役《にちろえき》の陸軍総司令官|大山巖《おほやまいはほ》侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。しかし北清《ほくしん》事変の時には大平《だいへい》といふ広小路《ひろこうぢ》(両国)の絵草紙《ゑざうし》屋へ行《ゆ》き、石版刷《せきばんずり》の戦争の絵を時々一枚づつ買つたものである。それ等の絵には義和団《ぎわだん》の匪徒《ひと》や英吉利《イギリス》兵などは斃《たふ》れてゐても、日本兵は一人も斃れてゐなかつた。僕はもうその時にも矢張《やは》り日本兵も一人位《ひとりくらゐ》は死んでゐるのに違ひないと思つたりした。しかし日露役の起つた時には徹頭徹尾|露西亜《ロシア》位悪い国はないと信じてゐた。僕のリアリズムは年と共に発達する訣《わけ》には行《ゆ》かなかつたのであらう。もつともそれは僕の知人なども出征してゐた為めもあるかも知れない。この知人は南山《なんざん》の戦《たたかひ》に鉄条網《てつでうまう》にかかつて戦死してしまつた。鉄条網といふ言葉は今日《こんにち》では誰も知らない者はない。けれども日露役の起つた時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだつたのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年|前《ぜん》の日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。
 この表忠碑の後《うしろ》には確か両国劇場《りやうごくげきぢやう》といふ芝居小屋の出来る筈になつてゐた。現に僕は震災|前《ぜん》にも落成しない芝居小屋の煉瓦壁《れんぐわべい》を見たことを覚えてゐる。けれども今は薄汚《うすぎた》ない亜鉛葺《トタンぶ》きのバラツクの外《ほか》に何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は両国の鉄橋に愛惜《あいじやく》を持つてゐないやうにこの煉瓦建《れんぐわだて》の芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。両国橋の木造だつた頃には駒止《こまと》め橋《ばし》もこの辺に残つてゐた。のみならず井生村楼《ゐぶむらろう》や二州楼《にしうろう》といふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。その外《ほか》に鮨屋《すしや》の与平《よへい》、鰻屋《うなぎや》の須崎屋《すさきや》、牛肉の外《ほか》にも冬になると猪《しし》や猿を食はせる豊田屋《とよだや》、それから回向院《ゑかうゐん》の表門に近い横町《よこちやう》にあつた「坊主《ぼうず》軍鶏《しやも》」――かう一々数へ立てて見ると、本所《ほんじよ》でも名高い食物屋《くひものや》は大抵《たいてい》この界隈《かいわい》に集つてゐたらしい。

     「富士見の渡し」

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