の知る所なるべし。就中《なかんづく》「病牀六尺」中の小提灯《こぢやうちん》の小品の如きは何度読み返しても飽《あ》かざる心ちす。

 六 人としての子規《しき》を見るも、病苦に面して生悟《なまざと》りを衒《てら》はず、歎声を発したり、自殺したがつたりせるは当時の星菫《せいきん》詩人よりも数等近代人たるに近かるべし。その中江兆民《なかえてうみん》の「一年|有半《いうはん》」を評せる言の如き、今日《こんにち》これを見るも新たなるものあり。

 七 然れども子規《しき》の生活力の横溢《わういつ》せるには驚くべし。子規はその生涯の大半を病牀《びやうしやう》に暮らしたるにも関《かかは》らず、新俳句を作り、新短歌を詠じ、更に又写生文の一道をも拓《ひら》けり。しかもなほ力の窮《きわ》まるを知らず、女子教育の必要を論じ、日本服の美的価値を論じ、内務省の牛乳取締令を論ず。殆《ほとん》ど病人とは思はれざるの看《かん》あり。尤《もつと》も当時のカリエス患者は既に脳病にはあらざりしなるべし。(一月九日)

 八 何ゆゑに文語を用ふる乎《か》と皮肉にも僕に問ふ人あり。僕の文語を用ふるは何も気取らんが為にあらず。唯口語を用ふるよりも数等|手数《てすう》のかからざるが為なり。こは恐らくは僕の受けたる旧式教育の祟《たた》りなるべし。僕は十年来口語文を作り、一日十枚を越えたることは(一枚二十行二十字詰め)僅かに二三度を数ふるのみ。然れども文語文を作らしめば、一日二十枚なるも難しとせず。「病中雑記」の文語文なるも僕にありてはやむを得ざるなり。

 九 僕の体《からだ》は元来甚だ丈夫ならざれども、殊にこの三四年来は一層|脆弱《ぜいじやく》に傾けるが如し。その原因の一つは明らかに巻煙草を無暗《むやみ》に吸ふことなり。僕の自治寮《じちれう》にありし頃、同室の藤野滋《ふぢのしげる》君、屡《しばしば》僕を嘲《あざけ》つて曰《いはく》、「君は文科にゐる癖に巻煙草の味も知らないんですか?」と。僕は今や巻煙草の味を知り過ぎ、反《かへ》つて断煙を実行せんとす。当年の藤野君をして見せしめば、僕の進歩の長足《ちやうそく》なるに多少の敬意なき能《あた》はざるべし。因《ちなみ》に云ふ、藤野滋君はかの夭折《えうせつ》したる明治の俳人|藤野古白《ふぢのこはく》の弟なり。

 十 第一の手紙に曰《いはく》、「社会主義を捨てん乎《か》、
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